集団「Emication」別館

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「ニイタカヤマノボレ 一二〇八」。「奥平貞俊と川尻城(後半)」(続 つくで百話)

お供え1208。 今日は12月8日
ニイタカヤマノボレ 一二〇八」
 1941年12月8日,「12月8日午前零時を期して戦闘行動を開始せよ」という意味の暗号電報が船橋海軍無線電信所から送信されました。  この暗号電報を受け,真珠湾アメリカ軍基地を奇襲攻撃しました。戦艦アリゾナ等戦艦11隻を撃沈,400機近くの航空機を破壊しました。  そして,攻撃の成功を告げる暗号電報「トラ トラ トラ」が打電されました。  日本が“宣戦布告”をし,太平洋戦争大東亜戦争対米英戦)の勃発です。  みなさんの家では,ニイタカヤマノボレ」や“戦争”,“平和”が話題になったでしょうか。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     甘泉寺夜話 作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)その二           奥平貞俊と川尻城(後半) (前半より) 次に奥平氏上野国を去った原因ですが,これにも三説があり,その一は両毛(上野,下野)の地に於ける新田氏の凋落著しく,足利幕府の圧迫に堪え難くなったとし,その二は家督上の争いから一時高野山に身を避け,後三河に来たといい,その三は上杉禅秀の乱によって故国を逐われたとしています。また作手に来た人数についても,一族郎党を率いて来たという「浪合記」「別本奥平系図」は,始住の祖を定政とし,桜井刑部太夫ただ一人を連れて来たという「藩史」「重修家譜」と対立しています。以上のように移住の時期も人数も当主も様々ですが,これについての論評は後日にゆずり,「中津藩史」に従い先に進みましょう。  作手に来た貞俊は,川手の領主山崎高元に頼りました。高元は奥平に所縁あるものでしたから,貞俊の身のふり方を心配し,まず鴨ヶ谷の甘泉寺を頼み,ここに居候させてもらうことにしました。折柄富永荘の事務が映帯していたので手伝わせたところ,この人頗る吏務の才があり,その処理また適当であったので,荘官もこれを登用し,次第に周囲の人望を集めていきました。そうこうしている間に来り属するものもあって,追々と土豪としての地歩を固め,所領も数ヶ村をかぞえた時点で,川尻村に城地を見立て築城の上,これに住みました。その時期については「藩史」はじめ請書ともに年月を掲げていませんが,ひとり「作手村誌」は川尻城址の項で応永三十一年三月とし,同年八月亀山城築城によりこれに移ったと載せています。これによると,貞俊七十五歳で死去の十年前に当ります。一介の素浪人から身を起し,一城の主となるまでに半世紀近い年月を要したわけですが,この説には幾多の疑問があります。  まず川尻城がたった五ヶ月という短命に終ったことです。廃城の理由は手狭になったからだとしていますが,この短期間にそんなことが事実あり得るでしょうか。築城計画は城主の兵力財力を基礎とし,政治上軍事上の情勢を参酌して,綿密な計算と検討を経てから実施されるもので,完成直後廃物となるような不見識が,行なわれようとは考えられません。両者のどちらかに間違いがあるのです。 川尻城1208。 川尻城は作手平のほぼ中央,川尻村の城山という孤丘を城地としています。米福長者伝説の長者平村の東,姉川を隔てた山麓湿地の中にあり,標高五四〇メートル比高二〇メートルほどの居館城です。頂上の削平地は東西七三メートル南北四五メートルの楕円形で,中央北縁に接して一段高い櫓址があります。今は石仏や日清,日露役の忠魂碑が建っています。檜址の西方には今次大戦々歿者の供養碑が整然と立並び,その端に平和祈念観音像が白い美しい姿を見せ,聖域を形成しています。削平地の東縁には土塁があり,その下に二段の小郭があります。  城への入口は南側にあり,大手門は西側にあったと思われ,今も濠址らしい遺構が一部残っています。古老の話では,明治年間までは門の敷石や堤塁らしいものがあったが,村人が勝手に堀崩し持去ったといいます。また田圃を隔てた南側の山裾にある小平地(畑)が,城門の址だという人もありますが,城との中間に馬では渡渉不能の泥田で隔てられているので,もし城門址としても本城のそれではなく,出丸の如きものがここに存在したのでしょう。川尻城の周囲はすべて低湿地ですから,水濠は一部存したでしょうが,よしなくとも差支えなかったでしょう。  城の規模からみると,「藩史」の郷の一部数ヶ村を領する時点で,城を取立てたという記述とぴったり符合します。作手村のうち田原,黒瀬,善夫,中河内とつづく川尻以北の一帯は,広い田園を擁しながら,不思議とお城がありません。これは在地に城を築くほどの土豪が成立しなかったことで,その原因を奥平氏のいち早い領有とは,考えられないでしょうか。亀山城が応永三十一年八月に完成したなら,川尻城は少くともそれ以前,自然に狭隘となる時代推移の時間──十年くらい前ではなかったかと思われます。その理由は,貞俊の長男貞久は応永二年生ですから,この時すでに三十歳です。当時の慣例では六十歳になれば誰でも隠居しました。貞俊六十歳といえば貞久十五歳に当り世を譲るには多少心許なく感じたでしょうが,二十歳ともなればその不安はないはずです。七十五歳まで貞俊が頑張っていたということが既に不自然で,貞久の成人を待ち,川尻城の築城に踏切ったとは考えられませんか。  次に貞俊が勢力拡大のあとをたどっで見ましょう。最初に臣属したのは山崎高元です。彼は奥平氏土着の功労者ですが,川手村の領主といえば聞えがいいのですが,実はさして大きくもない一処士に過ぎません。しかし貞俊は恩義を以て重臣の首座に据えました。ついで貞俊の弟八郎二郎定直が,兄を慕って上野国から来たので,これに額田郡中金村を与え族臣としました。中金は田原坂を下った宮崎村の地内で,後年奥平氏の西方に備える要地となります。これをきっかけに二代貞次の時代になると,奥平氏の発展は急ピッチとなり,ついに川尻城の狭隘となるわけで,亀山城への移転は貞俊の在世中とはいえ,実は貞久の代と考えるべきでしょう。  亀山城へ移転した後は空城となりましたが,全く廃城となったわけではなく,「村誌」は奥平但馬信光が居城したと載せています。奥平但馬は夏山へ移った久正であり,信光は名倉へ移った喜八郎(左京進)貞次の子信光です。「村誌」はこの二人を混同しているようで,まず久正が居り,その後時代を隔てて信光が守ったのではないでしょうか。領内枢要の地に築かれた城は,政治情勢の変化によって主城から支城へ顚落することはあっても,また軍事上の地位が軽くなっても,全く無価値になるということはありません。従って本城防衛網の一環として,家臣の誰かが守ったことは疑を要しません。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】    ◇公益財団法人日本城郭協会