2.(3-1) 山城をつくった武士たち (わたしたちの村)
もう少し"晴れ”を感じる日になると思っていましたが,美しい青空ではありませんでした。
昨日,中学校へ行くと,写真館の方が卒業アルバム用の撮影していました。
生徒一人一人の"表情”を引き出し,"今”を写していました。
夜,カメラマンのインスタグラムに,焼き物と樹木そして青空の写真が載っていました。
気持ちのよい一日の始まりを感じます。
「どこかで見たことがある…」
これは,中学校の玄関前です。これまでも,この角度から見たことがありませんし,見ようとしていませんでした。今朝も見たはずですが…。
多くの方が通った玄関前も,プロカメラマンの"目”からは"違って”見えたのです。
この目を真似られたら,日常の景色・風景がこれまでと違って見え,わくわくしてきそうです。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(三) 山城をつくった武士たち
1 作手の豪族と山城
大化の改新によって,日本じゅうの土地や人は,朝廷のものになりました。しかし,しだいにそれがくずれて,平安時代には,貴族やカのある寺や神社が,たくさんの土地を持つようになりました。そのような土地を荘園といいます。
作手の寺や神社の棟札には「富永庄作手郷」と書かれたものがあります。これは,作手の村々が,富永荘にふくまれていたことのあらわれです。
富永荘のおこりは,1335(建武2)年に,富永直郷が東三河を治める守護という役目についてからです。富永荘は豊川の北部,一宮の東上から新城,作手,鳳来,さらに北設楽郡の南部までをしめるほどでした。富永氏は,1506(永正3)年まで,八代のあいだ新城の野田にいて,この地を治めていました。
富永氏のおとろえとともに,作手で大きな力を持ったのは,武士の菅沼氏と奥平氏でした。菅沼氏は作手の菅沼をはじめとして,田峯・長篠・井代・島田・野田に城を持ち,力をぶるいました。
奥平氏は,もとは上野国甘楽郡奥平邑(群馬県)に往み,貞俊という人が,1400年ごろ作手に来たのです。貞俊は,初め甘泉寺にいましたが,しだいに実力を見せ,川尻に城をかまえました。その後まもなく,奥平氏の本城となる亀山城をつくりました。
貞俊の長男貞久は,今川氏などに味方をして勢力をのばし,作手郷36か村と,まわりの額田郡,宝飯郡,北設楽郡の一部をも治めました。
貞久には七人の子があり,長男の貞昌を亀山城に,そのほかの子をまわりの城において,奥平氏の地位をたしかなものにしました。こうして奥平氏は,田峯の菅沼氏,長篠の菅沼氏とならんで,「山家三方衆」とよばれるまでになりました。
戦国時代に入り,作手は今川氏,松平氏(徳川氏),武田氏にかこまれ,軍事上とても大切な地になりました。そのため左の図のように,多くの山城がつくられました。
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注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
【関連】
◇浅野写真館
◇新城市の写真館 浅野写真館(@asanophotogram)(Instagram)
◇浅野尚崇_新城市_アサノシャシンカン(@p.w.naotaka)(Instagram)
【おまけ;切り剣 Masayo】
先日テレビに,切り絵創作家(切り剣)の福田理代さんが出ていました。また,広報誌『理想の詩』(2021夏)に「切り抜き描く生命の姿」のタイトルで記事になっていました。
「海蛸子」をはじめ,その繊細で緻密な作品に魅了されます。いつか本物を観てみたいものです。
◇切り剣Masayo 切り絵創作家 福田理代のオフィシャルサイト
◇切り剣 福田理代【初作品集発売中】 (@kiriken16)(Twitter)