集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

2.(3-1) 山城をつくった武士たち (わたしたちの村)

玄関0611。 もう少し"晴れ”を感じる日になると思っていましたが,美しい青空ではありませんでした。  昨日,中学校へ行くと,写真館の方が卒業アルバム用の撮影していました。  生徒一人一人の"表情”を引き出し,"”を写していました。  夜,カメラマンのインスタグラムに,焼き物と樹木そして青空の写真が載っていました。  気持ちのよい一日の始まりを感じます。  「どこかで見たことがある…」  これは,中学校の玄関前です。これまでも,この角度から見たことがありませんし,見ようとしていませんでした。今朝も見たはずですが…。  多くの方が通った玄関前も,プロカメラマンの"”からは"違って”見えたのです。  この目を真似られたら,日常の景色・風景がこれまでと違って見え,わくわくしてきそうです。  郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。 ******** 古文書0611。    (三) 山城をつくった武士たち    1 作手の豪族と山城  大化の改新によって,日本じゅうの土地や人は,朝廷のものになりました。しかし,しだいにそれがくずれて,平安時代には,貴族やカのある寺や神社が,たくさんの土地を持つようになりました。そのような土地を荘園といいます。  作手の寺や神社の棟札には「富永庄作手郷」と書かれたものがあります。これは,作手の村々が,富永荘にふくまれていたことのあらわれです。  富永荘のおこりは,1335(建武2)年に,富永直郷が東三河を治める守護という役目についてからです。富永荘は豊川の北部,一宮の東上から新城,作手,鳳来,さらに北設楽郡の南部までをしめるほどでした。富永氏は,1506(永正3)年まで,八代のあいだ新城の野田にいて,この地を治めていました。 山城0611。 富永氏のおとろえとともに,作手で大きな力を持ったのは,武士の菅沼氏と奥平氏でした。菅沼氏は作手の菅沼をはじめとして,田峯・長篠・井代・島田・野田に城を持ち,力をぶるいました。  奥平氏は,もとは上野国甘楽郡奥平邑(群馬県)に往み,貞俊という人が,1400年ごろ作手に来たのです。貞俊は,初め甘泉寺にいましたが,しだいに実力を見せ,川尻に城をかまえました。その後まもなく,奥平氏の本城となる亀山城をつくりました。  貞俊の長男貞久は,今川氏などに味方をして勢力をのばし,作手郷36か村と,まわりの額田郡宝飯郡北設楽郡の一部をも治めました。  貞久には七人の子があり,長男の貞昌を亀山城に,そのほかの子をまわりの城において,奥平氏の地位をたしかなものにしました。こうして奥平氏は,田峯の菅沼氏,長篠の菅沼氏とならんで,「山家三方衆」とよばれるまでになりました。  戦国時代に入り,作手は今川氏,松平氏(徳川氏),武田氏にかこまれ,軍事上とても大切な地になりました。そのため左の図のように,多くの山城がつくられました。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で  注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。  注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。 【関連】   ◇浅野写真館   ◇新城市の写真館 浅野写真館(@asanophotogram)Instagram)   ◇浅野尚崇_新城市_アサノシャシンカン(@p.w.naotaka)Instagram) 【おまけ;切り剣 Masayo】  先日テレビに,切り絵創作家(切り剣)の福田理代さんが出ていました。また,広報誌『理想の詩』(2021夏)に「切り抜き描く生命の姿」のタイトルで記事になっていました。  「海蛸子」をはじめ,その繊細で緻密な作品に魅了されます。いつか本物を観てみたいものです。
  ◇切り剣Masayo 切り絵創作家 福田理代のオフィシャルサイト   ◇切り剣 福田理代【初作品集発売中】 (@kiriken16)Twitter