啓蟄。 3-1.7 「奥平貞勝(1)」 (作手村誌)
今日は、二十四節気の一つ「啓蟄」です。
「啓」は“ひらく”、「蟄」は“土の中で冬籠もりしている虫”という意味です。
今まで土の中にいた虫たちが、春の到来を感じ、草木の芽吹きとともに、地上へ這い出してくる頃です。
今日、天気が良く暖かい日で、暦に合わせるように“むし”が這い出し、その姿を見ることができたでしょう。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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第二編 村の沿革と歴史
人物 奥平氏
奥 平 貞 勝
九八郎、監物、後道文と号す。第百四代後柏原天皇の永正九年(一説永正十七年二月八日)作手亀山城に生まる。享禄三年五月徳川清康(家康の祖父)三河国宇利城を攻む、貞勝従うて本隊にあり、勇躍一番搦手門を突破して進む、東三河の諸将鼓噪して之に続く、城主熊谷備中守直盛守る能わず城を捨てて遁る。この戦貞勝勲功全軍に冠たり、時に歳十九。
貞昌の嫡男、第百五代後奈良天皇の天文四年四月二十日貞昌卒去により家督を承く、時二十四才。
天文六年九月二十二日、一族奥平弾正(父は貞久の二男久勝、市場村の石橋の館に居住、石橋弾正と呼ぶ)貞勝の若年(二十六才)なるに乗じて不軌を図らんとす。貞勝之を探知するや土佐定雄(貞俊の二男なる和田出雲守貞盛の二男)をしてその居館を急襲せしむ、定雄賜うところの長槍を揮つて弾正を殪す、功を以て伊奈木村(後稲木村と改む、奥平家では訛りて稲毛と称す)を賞賜す。後族臣に列せらる。弾正及びその郎党誅に伏するもの四十二人を一所に埋む、後年崇りありとて館址に一寺を建立して石橋山慈昌院と号し「ぜき」上に龕(龍の貌)を作り、奥平弾正宮と称す、弾正の息太郎次郎遁れて三河国の巨刹煙厳山鳳来寺に潜む、貞勝後難を慮りて之を誅せんとす、而も和尚庇護するを以て策の施すべきなし。偶々作手の近郷、黒谷郷の城主黒谷(黒谷)和泉守重広、貞久の相談役たりし緑故あるにより、その子甚兵衛重氏、甚九郎重吉の兄弟に嘱して之を除かんとす。二人快諾し重氏先ず鳳来寺に至り詭計をもつて太郎次郎を討ち直ちに首を貞勝へ送る、貞勝深く二人の功を悦び、酬ゆるに重臣を以てし新に吉川村を与う、後重氏を五老に列す。
天文十一年八月、尾張の小田信秀(信長の父)兵を発して三河を攻略す、徳川広忠(家康の父)援兵を駿河の今川義元に乞う、茲に於いて義元大軍を西三河に派遣す、両軍期せずして小豆坂に遭遇す。この時貞勝、広忠軍の先隊にあり、縦横奮闘敵の首級を挙ぐること算なし。織田方(信秀の弟信光)遂に兵を収めて尾張へ帰る。これを小豆坂の戦という。
天文十二年五月信濃国伊奈衆東三河を焼動す。貞勝田峯、長篠の両菅沼氏と共に弘治二年一時織田氏に降り雨山城を守りしが、今川方の菅沼新八郎定則に攻破られて今川氏に従う。作手の奥平、田峯の菅沼、長篠の菅沼は東三河山中の険要の地に在りて唇歯の関係なり、之を山家三方衆と称す。
第百六代正親町天皇の永禄三年五月、今川義元桶狭間に敗死するや、嗣子氏真暗愚なるに乗じ、八月徳川家康縦に西三河を攻略し、次いで永録四年春東三河を焼動す。賀茂郷五本松の西郷弾正左衛門正勝、設楽郡内の菅沼新八郎定盈(野田城主)、長篠城主菅沼右衛門貞景、子新九郎正貞、段嶺武節の菅沼刑部貞吉、子新三郎定忠等相率いて徳川家康に属すると雖も、独り貞勝、貞能父子は今川方に踏みとどまり家康と戦いて功あり、氏真大いに之を徳とす。曩に徳川氏の今川氏を見限りて去るや、外様の諸家及び宿将老臣等、織田、武田、北条等の雄邦に帰するもの続出せり。奥平家は今川氏親以来数代に亘り親密なる交誼あるを以て氏真の擁護に最も力を尽したりと雖も、一方徳川氏は奥平家の多年東三河の山中に割拠し勇武強兵辺境に冠たるを知り、窃に人を遣わして招致せんとするに会したれば、永録七年春遂に意を決して貞勝、貞能は、一家一族挙りて款を徳川家康へ通ずるに至る。
(つづき)
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
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【掲載記事から】
◇「四代貞勝と石橋館」(続 つくで百話)(2019/12/17)