3-1.5 「奥平貞久」 (作手村誌)
久しぶりの訪問、楽しく過ごしました。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の大河ドラマが鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。
『作手村誌』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。
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第二編 村の沿革と歴史
人物 奥平氏
奥 平 貞 久
六郎左衛門、監物、後出羽守、叉川合出羽守の称あり。第百代後小松天皇の応永二年 三河国設楽郡作手に 生まる。(一説には父貞俊と共に上野国から来て初め川尻城に居り、第百二代後花図天皇の永享二年亀山城に於て父の名跡を継いだと)貞俊の長子なり。貞久の時代領土大いに拡がりたり。松平親長(徳川家康の祖父の祖父)に従属し、その後今川氏親(義元の父)に与力して戦功をたて、威望日に加わり、土民の帰する者多く遂に作手三十六ヶ村(市場、須山、北畑、木和田、野郷、相月、寺林、赤羽根、小林、弓木、草谷、鴨ヶ谷、手洗所、岩波、田原、川尻、和田、見代、川手、杉平、田代、長者平、千万町、塩瀬、嶋田、道貝津、川合、大和田、善夫、菅沼、黒瀬、御領、笠井島、小田、折立、栗島)及び額田郡、宝飯郡の一部を領有するに至った。
貞久七子あり、嫡は貞昌なり、次男弾正久勝を分地とし知行のうち四分の一を与えて、市場村石橋の館に居らしむ、三男但馬久正に額田郡夏山村を、四男主馬允に宝飯郡萩村を、五男兵庫介信丘に宝飯郡佐脇村を与えて族臣となす。六男喜八郎貞次は名倉村を領し、七男は助次郎定包と称す。佐脇の領主生田主計、作手郷北畑の領主兵藤太郎八共に来属し、設楽郡黒谷郷の領主黒谷和泉守重広を軍事の相談役に嘱す。
第百二代後花園天皇の文安五年霊夢によりて八幡宮を建立し、奥平御先祖貞俊公奉諡八幡宮と称し、末杜に若宮と山の神を祀り、右勧請の上修覆料として高八石三斗二升、山林、竹林共に寄附したと言えり。今の大字白鳥字川合の村社八幡宮はこれなりと伝う。第百三代後土御門天皇の文明七年七月四日亀山城に於て卒す、八十一才。(一説交明十八年六月二十六日卒去で八十二才ともいう。この説に従えば生まれた年とい違いを生じてくる)。法名太中道頓大禅定門、城外の地に葬る。室不詳。
亀山城の規模の川尻城に比して大なるは家運の発展に従い築きたるを以て固より当然なるべしと雖も或は後年(慶長七年)松平忠明(奥平信昌の四男)が祖先発祥の地として特に拝領せし所なれば、その際増築拡張したるものにあらんか、城地を離れ数町程、貞久の墳墓と称する清岳の畑中一段高き円形地上に一基の古石塔あり、その背後に聳立する数百年の一本檜は亭々として如何にも古塚を表徴するに相応しく、この口碑は「城外の地に葬る」の記録と合致して正に疑う可からざるが如し。
貞久の三男但馬久正、四男主馬允、五男兵庫介信丘ともに七族中に列せられたるに係らず、二男石橋弾正久勝の加わらざるは頗る奇異の感なくんばあらず、蓋し久勝固より列中にありしも、二代弾正不軌を図りしため抹殺して伝わらざるものならんか、或は弾正久勝は分地として惣知行高の四分の一を賜りたりと言えばその待遇は寧ろ族臣以上にして始めより七族中に列せざりしものならんか。
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注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。
【掲載記事から】
◇「二代貞久と亀山城」(続 つくで百話)(2018/12/11)