集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

亀山城址 (作手の名勝と史跡めぐり)

花0512。 曇りの一日でしたが,雨が降ることはなく少し動いただけで汗の出る暑い日でした。  愛知県は,まん延防止等重点措置に続いて,本日から「緊急事態宣言」が発出されました。感染防止に努め,不要不急の行動の自粛して過ごしましょう。  自動車を運転していて,前に見かけないトヨタ車が走っていました。  車名を捜すと“MIRAI”です。水素で走るクルマです。“特別なクルマ”だと思います。  帰路,別の場所で,先のクルマとは違う“MIRAI”が追い越していきました。  水素で走るMIRAIは“限られたトコロ”が所有しているだけと思っていたら,そうではないようです。全国でそうなのか,豊田市だからか,いろいろ思いました。  『作手の名勝と史跡めぐり』(発行1997年?)からです。 ********     亀山城亀山城本丸 駐車場に車を入れ,案内板に従って急な坂道を50mほど登るとやや平垣な場所にでる。東曲輪である。そこを右に曲がると細長い広場に出る。現在“古城祭り”のときに弓道場となる「二の丸」である。さらに左に折れると土塁の切れた「東虎口」を通り抜け「本丸跡」にでる。中央に大正五年建立の「亀山城趾 愛知県」の石の記念碑がある。  東屋でしばし休むのもよい。桜の木が植えられている長さ60m,横30mの広場である。松の緑も色濃く,古城址の風格がある。残念ながらこの頃の松喰い虫の影響で数本の松が枯れてしまった。
   亀山城由来記  天授年中(1375〜80)上野国甘楽郡奥平郷より奥平貞俊作手に至る。  川手領主山崎三郎左衛門高元を頼り鴨ヶ谷甘泉寺に寓居し勢力人望を得て川尻城を築き更に亀山城を築きこれに移る。 虎口付近 初代貞俊以降・二代貞久・三代貞昌・四代貞勝・五代貞能まで五代百六十六年間この地に住し,長篠の戦の三年前,天正元年八月二十日所謂田原坂石堂ヶ根を最後に嫡子貞昌(信昌)と共に作手を去り,貞昌は長篠の城将となって武田の若き主将勝頼と日本戦史に名を残す長篠の戦をなすに至る。  その後信昌は新城城主となり更に関東移封となったが,慶長七年(1602年)信昌の四男松平下総守忠明(後に大坂城・姫路城の城代となる)が,作手藩一万七千石に封ぜられ,城は復活したが同十五年伊勢亀山城に移るに及び廃城となった。  今なお土塁には中世築城の特徴を残す奥三河屈指の城址である。     作手村教育委員会
 本丸・二の丸・西曲輪等は村所有地となっている。毎年五月の最終日曜日には『古城まつり』が行われ,火縄銃の演武や野点があり,見学者でにぎわいを見せている。 亀山城要図0512。 亀山城址要図を参考に,松風が心地よい古城址を歩いてみるのもよい。  さて,見学を終えたら北側の土塁の上に立ち,まわりの風景を見よう。国道301号をはさんでお寺が見えるだろう。石橋山慈昌院(ジショウイン)である。時間があったら次はこの石橋城址ヘと歩を進めよう。 《写真上》 亀山城址本丸付近 《写真下》 亀山城址虎口付近 《図》 亀山城要図(クリックすると大きく表示します) ********  注)これまでの記事は〈タグ「史跡めぐり」〉で  YouTubeで見つけた「亀山城」の紹介です。  昨日の「古宮城」と同じ作者の動画です。
こちらは,映像のみ。古宮城のものと合わせて,出かける前のシミュレーションにどうぞ。