集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

3-1.4 「奥平貞俊」 (作手村誌)

神社0217。 天気のよい一日でした。  昨日に続いて、日差しがありますが、気温が上がらず寒い日でした。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏   奥 平 貞 俊  庄右衛門(一に平右衛門)定家の男で八郎左衛門尉、大膳亮と称す。第九十七代後村上天皇の正平四年(一説に正平二十年)上野国甘楽郡奥平邑に於て生まる。第九十八代長慶天皇の天授年中(一説に第百一代称光天皇の応永三十一年三月)三河国作手へ到り山崎三郎左衛門高元(川手の領主、後五老の首位に列す)に頼る。高元、貞俊の為に斡旋して自立の方途を講ず。始め鴨ヶ谷村の甘泉寺に寓す。偶々村民に推されて庄官の事務を掌る、処理允当にして衆庶悦服す、各村相率いて来り属するもの多し。その上野国を出ずるの原因については、曰く、両毛(上野国下野国)の地、新田氏の勢威衰えて他の圧迫に堪え難きによると、曰く、家督上の争諭を惹起したるため一旦高野山に遁れ後三河へ来りたると、曰く、上杉弾正の乱を避けて来ると。諸説一ならず。叉作手に来りたる人数についても、曰く、一族郎党を率いて来ると、曰く、僅かに家人桜井刑部太夫一人のみを従え来る、との二説あり。貞俊居ること数年勢力次第に膨大し、郷内川尻村に築きて居を定め、更に作手の主邑市場に亀山城を築きて移る(一説貞俊応永三十一年難を避け一族郎党を率いて作手に至り川尻村に城地を見立て築城の上之に拠り、同年八月更に市場村に亀山城を築いて之に移り住む)。老に及んで家を嫡男貞久に譲り、次男出雲貞盛に和田村を、舎弟八郎次郎貞直の上州(上野)より来りたるにより額田郡中金村を与えて共に族臣となし、山崎三郎左衛門高元を遇するに老臣を以ってす。永享五年十月十二日三河国市場村亀山城に於て卒す、八十五才(一説、第百二代後花園天皇の文安三年七月八日病歿、八十二才)法名茂林栄繁大禅定門、川合村に埋葬す。現在の村社八幡神社の神前老樫の根木に納めたりと伝う。夫人某後花図天皇の嘉吉元年七月卒す、法名至音宜法信女、墓所不明なり。  一説に応永三十一年に尹良親王(第九十六代後醍醐天皇の第三皇子宗良親王の御子)を奉じて作手に来たのは貞俊の祖父定政(庄左衛門尉)父貞家(九八郎定家)である。貞家、貞俊、貞久は永享七年に良王(ヨシユキ)王を奉じて来たのだと。又定家は貞俊の幼名であると。新城町永住寺にある作手郷市場村松尾大明神の鐘に刻してある沙門貞家は定家であると。
   城山  黒谷直房 川尻春晩夕陽低 躑躑紅開古塁西 四顧范々人不見 声々吐血杜鵑啼
********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で  注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。 【掲載記事から】   ◇「奥平貞俊と川尻城(前半)」(続 つくで百話)(2019/12/07)   ◇「奥平貞俊と川尻城(後半)」(続 つくで百話)(2019/12/08) 【おまけ】 ChatGPT0217。 ChatGPTに、「奥平貞俊」について尋ねてみました。  『戦国武将の一人、三河の「奥平貞俊」は、どのような人物ですか?』と。  その回答は…。 【情報】  ◇ChatGPTが変える働き方 AIリスクは増加へ【WBS】(2023年1月27日)YouTube