3-2.4 豊富小「板書する子どもたち」(1) (昭和に生きる)
天気のよい日でした。
用事があって出かけました。いつもより早い“桜の便り”が伝わっており、今日もさまざまな花、桜が見られました。
「マスクの着用は個人の判断で…」となって半月立ちますが、店舗など建物の中では、ほとんどの人がマスクを着けていました。
3年前(2020/03/30)の記事は、訃報を伝えています。
新型コロナウイルス感染が伝えられていたタレントの志村けんさんの訃報が伝えられました。 新型コロナウイルス感染への予防や活動の自粛について,多くの方に“強く訴えるもの”のあるニュースだと思います。 ご冥福をお祈りします。“あの頃”に戻ることなく、先へ進む“わたしの暮らし”を創っていきたいものです。 故・渥美利夫氏が還暦の年に著した『昭和に生きる』(1987(昭和62)年刊)からです。 渥美氏の教育実践、教育論は、“昔の話”ですが、その“根”そして“幹”となるものは、今の教育に活きるものです。これからの教育を創っていくヒントもあると思います。 本書のなかから、“その時”に読んで学んだ校長室通信を中心に紹介していきます。「考える」ことが、若い先生に見つかるといいなあと思います。 この項は、「豊富小『板書する子どもたち』に寄せて」から構成されています。 ******** 戦後教育史の片隅に生きる 教育行政の歯車のなかで 豊富小「板書する子どもたち」に寄せて
額田郡豊富小学校は、重松鷹泰先生指導のもと“板書する子どもたち─自主学習への過程─”を昭和四十九年十月、明治図書から出版した。重松先生からのお話によりわたしも第三章「あすへの力」の中の「二 残されたもの (2) 実践の検討を核にして」を書くことになった。 教頭の香村弘さんが家にきて、その前で書かなければならない破目になって、なにか流行作家なみのふんいきのなかで、一日机に向かって書いた。夏の暑い夕方、やっと書き終えて香村先生に原稿を渡して、二人で飲んだビールの味は、また格別であった。つぎはそのときのものである。三河の山間部の静かな土地の小規模校、豊富小に、重松鷹泰先生、小笠原ミち雄先生のおともをして初めて訪れたのは、たしか昭和四十六年の秋の研究会のことであった。 豊富の子どもたちの授業をみせていただいて、ここでは“ほんものの教育”が行なわれているな、と肌で感じた強烈な印象は、わたしの脳裏から離れないのである。以来いくたびか豊富小にお邪魔する機会に恵まれたのは、しあわせなことであった。 先生方は、精細な授業記録をつくっては、ほんとうにそれをかみしめるように、ていねいに分析をし、そこに自分たち教師のあるがままの姿を、そしてまた子どもたちの動きの変化のようすを追いかけ、その話し合いのなかで、素朴な自分たちのことばや思想をつくりだされているのである。 わざわざ好きこのんで、このめんどうなしごとに取り組んでいるのではなかろう。教育というものを、子どもというものを、本格的に問題にしようとすれば、それは当然授業から離れた現場の教育研究などはありえないという洞察が、あえてこの苦難の道を歩ませたにちがいない。 研究の過程において、いくたびかともに語らいつつも、微力にしてついになにものをも加えるものがなかったことを、ほんとうに申し訳なく思っているのである。 加えるなにものもなかったがゆえに、研究の成果をまとめるにあたって、学校が今後に残す課題はなんであるのか、指摘するように要求されたのである。しかしこれとて到底、わたしに背負えるものではなさそうである。けれどもその大役は引きうけなければならない破目に陥ってしまった。見当はずれのことが多いと思うが、前進のためのたたき台となればと願いながら、ここに私見を述べてみたいと思う。 (1) 追及の姿勢 (略す) (2) 新しい芽への期待 (略す) ・自分にもどす力 ・授業の強さ (つづく) ******** 注)これまでの記事は〈タグ「昭和に生きる」〉で 注2)掲載しているイラストは、学年通信(1993・1994年度)用に教員が描いたもので、図書との関連はありません。 【メモ;職員の異動検索】 今日、愛知県・名古屋市の教職員の異動が新聞に掲載されました。 中日新聞・東京新聞に「教職員・公務員の異動」が掲載されるのに合わせ、ネット検索(先生サーチ・公務員サーチ)ができます。 新聞では、「新しい勤務先(新任)」で掲載されており、「お世話になった○○先生は…」と探しても、異動先がなかなか見つかりません。 ネット検索(先生サーチ・公務員サーチ)では、「旧勤務先(現在の学校)」で検索すると、その学校から異動される方が一覧できます。