集団「Emication」別館

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「大雪」。「奥平貞俊と川尻城(前半)」(続 つくで百話)

鳥1207。 今日は,二十四節気の一つ「大雪」です。  “真冬並みの寒波”のために,日本海側を中心に,暦通りの“大雪”です。  山の峰は雪に覆われ,寒い地方では根雪になる雪が降り始める頃です。北風が吹き,平地でも雪が降りだします。  気温の上がらない寒い一日でした。本格的な冬の到来の時期です。  今年の冬は…。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)その二           奥平貞俊と川尻城(前半)  三河国に武士という階級が発生したのは平安時代も終わり頃で,南設楽郡では千郷の千秋氏,東郷の設楽氏,北設楽郡では田口の永江氏などが,源平時代から活躍しています。しかし作手村ではっきり武士とわかるのは奥平,菅沼の両氏で,南北朝の終わり頃からです。  奥平氏の本拠は上野国甘楽郡小野荘奥平郷です。ここは群馬県高崎市富岡市のほぼ中間に位する農村で,岩井村といい,上奥平に馬場城,下奥平に奥平城があります。奥平氏はここに鎌倉時代から住んで居た,武蔵七党の一つである児玉党に属する豪族でした。その出自については諸系混淆し,複雑を極めています。  奥平系図では「氏行幼名赤松二郎又九八郎,文治五年生。赤松播磨守則景の二男,長じて外伯畠山小幡太郎行綱に養われ,又児玉本庄佐衛門家貞の婿となり両家を相続し,上野国甘楽郡司の職を襲う。庄左衛門尉又本庄左衛門と改め,郡内小野庄奥平郷に住す。因って奥平を苗字とす。建長四年十月六日卒」となっています。江戸幕府の官撰系譜である「寛政重修諸家譜」は、(以下単に重修家譜という)平氏良文の流れとし次の如く記しています。  「今案ずるに貞享呈譜及び今の呈譜ともに村上源氏なりといへり。これその祖の出る所によるものか。しかれども氏行秩父の族党児玉の家を継ぐ時は源氏とはなし難し。武蔵七党の系図を案ずるに,児玉はもと藤原氏なりといえども,児玉家秩父将恒より四代重綱が養子となり,其子孫奥平を称するもの見ゆ。これによれば寛永の譜平氏良文の流におさむるも又いわれなきにあらず」  新城市永住寺に,もと作手郷市場村松尾大明神にあった梵鐘が現存していますが,その銘に  大日本三河国設楽郡市場村,松尾大明神鐘旦那 国久 信家 大工一色九郎左衛門,長享二戊申年十一月七日。勧進沙門貞家。藤原朝臣奥平美作家貞能改寄進之為老母,空屋妙心大禅定尼者也,天正二申戊年霜月吉日,三州設楽郡新城村 延命山永住寺三世噢州遵応老納代。  とあって時に藤原を称したことがわかります。長享二年(一四八八)は三代貞昌のときですが彼が曽祖父の名をとって貞家と称したかどうか研究の余地があります。次にこの奥平氏がいつ頃作手に移ったかということですが,諸説あって何れが正しいのかよく分りません。 家紋1207。 「重修家譜」は「氏行より数代を経て定政(始勝正)其子九八郎定家がとき,新田の氏族没落せしかば長男八郎左衛門貞俊,二男八郎二郎定長と共に上野国を去って三河国作手に移り住すという」として ○貞俊 上野国より三河作手に移り住す。これ其郷処士山崎三郎左衛門,其所に所縁あるが故なり。其人等ことごとに属従し,終に作手の領主となり,川尻村に城を築くも幾くもなく市場村に亀山城を築きてこれに移る。永享五年十月二日死,八十余。栄繁。  とし,その年代を記していません。また「別本奥平系図」では o貞俊 定政の男正平二十乙丑年上野国奥平に生る。始め定家後貞俊と称す。応永三十一 甲 辰 年難を避け一族郎党を率いて作手郷に至り,川尻村に城地を見立て築城の上之に居り,後聞もなく亀山城を築き之に移る。文安三年七月八日病歿す。行年八十二歳,川合村に葬る。法名茂林栄繁大禅定門。  また「浪合記」は,応永三十一年八月十五日,児玉庄左衛門定政は尹良親王を奉じて信州下伊那郡浪合に至ったところ,不意に賊徒の襲撃をうけ宮は御自害,定政は逃れて作手に入ったといいます。しかし日時については異説があり,浪合「堯翁院古記録」は応永三年三月二十四日としています。然るに「良王君伝」は永享七年十二月一日遭難の宮を尹良親王の子良王とし,その供奉の臣にして三河に隠れし従士の中に,児玉庄左衛門定政をあげ,「三州奥平に住す,奥平の祖」としており,所説一定しません。  奥平宗家の「中津藩史」(以下藩史という)では o定政 美作守,元弘三年以来新田党に与し,北条高時足利尊氏と戦い,又九州に出征し少弐頼尚と戦い,正平十四年戦死す。世寿六十三歳。 o定家 定政の男正和四年生る。正平十四年父定政とともに九州を征す。弘和二年卒す。六十七歳。 o貞俊 定家の男天授年中三河国設楽郡作手郷に来り郷内の一部を領有し初めて川尻村に城を築く。川手の領主山崎高元臣属す。後五老の首位に列す。  とし貞俊から始まっています。このように諸説ばらばらで,世寿,移住期も一致せず,貞俊を定政の子としたり,或は定政──定家──貞俊の三代を混同したのではないかと思われる記述さえあって,研究者を戸惑いさせます。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【関連】    ◇公益財団法人日本城郭協会