集団「Emication」別館

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師走。大昔の稲作(7) (つくで百話 最終篇)

書店1201。 今日から「師走」。天気のよい一日でした。  朝,西の空に「Beaver Moon(ビーバームーン)」がありました。昨夜は雲に隠れたり出たりしていましたが,青空に綺麗にみえる満月でした。  先日,久しぶりに書店に立ち寄りました。  Stay Homeが多く,本や雑誌もネットで見たり情報を得て,満足していました。でも,本が並ぶ棚を見ると“違い”や“新たな発見”がありました。  ネットを見るときの“偏り”や“凸凹”を,リフレッシュするよう心掛けないといけないと思いました。  あなたは,最近書店に立ち寄りましたか。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     大昔の稲作   西尾敏男  八、  直まき栽培から田植えに変ったのが,大和朝時代といわれているが,その後も収穫は依然として穂首刈りが続いていた。考えてみても大変である。稲だけにかかりきりというわけにはいかない。家を建てるのも自分たちでやらねばならない。開墾もある。魚とりもあった筈だ。雑衛と言って,国や公の仕事に人夫として狩り出される日も決して少くなかった。そんな忙しい中で,穂首から摘みとってゆく収穫作業は大変で,家長としては頭のいたいことだったろう。既に田槌え稲作は普及しており,収穫具も石庖丁から柄付きの鎌に変っていた。根元から刈りとろうと思えば刈れたのである。だがそれをやっていない。  柄付き鎌が出てきたことによって,左手で一掴みずつ掴んで,穂首の少し下から一挙に刈りとれるようになったことで,ずい分能率が上ったと思う。さらに田植えが普及するに及んで,一株を一握りにできるし,穂の位置も直まきより揃うから仕事も楽になる。田植方式も一層普及したと思う。しかし株元からの稲刈りはまだ出てこない。稲刈りが始ったのは,田植えが始ってから四百年も遅れて,平安朝時代の中ごろ,例の菅原道真公のころ,延喜時代ではなかろうかといわれる。そんなに遅れたいちばん大きな理由は,脱穀作業である。穂から籾を落すのに良い方法がみつからなかったのである。竪臼に入れて竪杵で搗いている限り,穂摘みの方が都合の良いことはわかる。  稲刈りがはじまったのは,籾扱きというやり方が出てきたからである。籾扱きというのは,日本独得のもので,稲が伝ってきた中国や朝鮮からきたものではない。これらの地方では,根刈りした稲束の穂を,木や石に打ちつけて脱穀するやり方を古くからやっている。日本で籾扱きの始った平安朝の頃,その農具が何であったかは不明のようである。そのころからさらに二百年過ぎた崇徳天皇の時代の歌ではないかと思われるなかに,からざおで稲穂を打っている情況があるという。そのころから相前後して木臼による籾摺りが始ったという。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【備忘録メモ】  2021年の夏。祝日の移動。  11月27日(金),2021年に限って3つの祝日を移動させる改正法が,参議院本会議で可決・成立。  ◇平成三十二年東京オリンピック競技大会・東京パラリンピック競技大会特別措置法(e-GOV)
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