集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

作手の弓道(3)(続 つくで百話)

ミツマタ0319。 晴れた日で,気温が上がり暖かい日でした。  用事に出たついでに,満開が近いと聞いた“ミツマタ群生地”と,まだ早いかもしれない“ミズバショウ”を回ってきました。  ミツマタの花は,満開前のようですが,とても綺麗に咲いていました。多くの方が鑑賞に来ていました。  ミズバショウは,昨年より育ちが遅いようで,小さいように感じました。花を楽しむのは,もう少し先のようです。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の弓道」の項からです。 ********     作手の弓道  明治二十三年,斎藤都利から峯田繁作利家に引継がれた門人名鑑には,新たに五十三名が登録されております。その後,峯田利家の門人として入門したものが作手南部地方で続出いたしました。また,斎藤都利門下の峯田皆吉利英の門人となったものが,作手中部,北部に多数できましたので,作手郷全部では百数十名の弓道人がでましたので,弓道ブームの時代を迎えました。当時,ある老農が「この頃は猫も杓子も弓に浮かれて,百姓の分際で弓をかついで,袴なんかはきゃがって,とび回っているが困ったもんだ。」ともらしておりました。しかし,その頃では弓は農村の最もよい健全娯楽であったものと思われます。平素,牛や馬のように遮二無二労働に没頭して,粗衣粗食に甘んじていた農民が,たまの遊び日や祭礼などに晴衣をつけ袴をはいて,礼儀正しい作法に随って,弓をひいたことは,心身錬磨のためにも,レジャーとしても,大きな効果があったものと思われます。弓ひきの一部に賭け矢などするものがありましたけれども,弓道人全体からみれば,それは九牛の一毛にも比すべき程度のものだったでしょう。今日,競輪,競馬や競艇に群がる大衆のギャンブルにくらべると,遥かに優れたレジャーであり,スポーツであったと考えます。 弓道0319。 斉藤都利から免許皆伝をうけた峯田繁作利家,峯田皆吉利英,阿部源作の三名は,何れも塗黒の美髯を蓄わえ,堂々たる体軀の持主でしたから,師範の貫録豊かな人物でした。五ツ紋付の黒羽二重の着物に,折目正しい仙台平の袴をつけた彼等の礼射痙どには風格高い弓道の精華をみるような感懐を覚えるのでした。その後,利家(重憲と改名)は忙しい自治政に没頭することになり,源作は名古屋へ転住して,自然と弓道から遠ざかってしまいましたが,皆吉利英は,熱心に弓道をつづけて,多くの門弟を養成しました。  峯田皆吉利英の後継者は野郷の尾藤粂寅に,尾藤は市場の原田柳嗣に,原田は長者平の斉藤与十郎に後を譲って今日に至りました。  今日,作手の弓道人口は,ずっと減少して,昔日の面影をみるべくもありませんが,村内有段者は五段以下三〇名,お宮の祭礼などには,かなりの多人数が集まって賑っております。  先にのべましたように作手の弓道界の流派は日置流印西派が圧倒的に多く,これにまじって大和流などがありますが夫々の伝統を守って修練をつづけていることは敬服に値いすろものと思われます。残念なことには,村内に正式の弓道場が一つもないことです。野天の矢場でも射技の修練はできるでしょう。しかし弓道という以上射技の向上だけでは,弓道の目的を充分達成することはできません。礼式と体配の修練をして,射品,射格の向上を図り,弓道を通じて,洗練された人格陶冶に終局の目標をおいて努力して頂きたいと思います。このために,作手中学校など適当なる場所に完全な弓道場を建設することが,全作手弓道人の切実な要望であるときいております。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で