集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

作手の剣道(1)(続 つくで百話)

花0323。 天気の良い一日でした。  今日も風が強く吹き,物が飛んでいきそうでした。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。 ********     作手の剣道  徳川の三八郎といわれた武将は奥平九八郎,菅沼新八郎,本多平八郎の三名でありますが,この中,奥平,菅沼の二名は作手郷の出身でありました。これらの武将は,多くの家臣を擁しておりました。家臣は即ち武士であります。元亀天正の戦国時代の武士は,必然的に剣,弓,槍などの武術を修錬する必要に迫られました。この辺から作手の剣道も勃興したものでありましょう。  江戸時代の延享年間(約二百五十年前)鳳来寺の玖老勢村に渋谷武雅という剣術の達人が出現いたしました。この人は渋谷金王丸から十九代目の子孫で,全国を武者修業のため遍歴して,剣の道を究め,明王意心流という一派を編みだしました。武雅の令名は天下に喧伝されましたので彼が玖老勢村に開いた道場には,新城,吉田藩士を始め各地から三千余名の門人が集まりました。 剣道0323。 幕末の頃,江戸の神田お玉が池に道場を開いていた千葉周作に匹敵するほどの門人をかかえていたのですから,非凡の名人であったろうと思われます。随って作手郷からも,大勢の若者が,ここで剣術修業をしたことでありましょう。  幕末から明治初年にかけては,大和田村に稲吉庄右衛門応貞という愛宕流剣術の達人が存在したことは,前篇ですでに述べた通りであります。  明治三十年代には,新城町に倉光成資という北辰一刀流の達人が居住しておりました。この人は千葉周作の甥の長男でありまして,千葉道場の俊足でもありました。倉光成資は,明治三十四年頃東郷村平井に修武舘道場を建設して,東三河地方の剣道復興に大きな貢献をしております。この倉光成資の義兄にあたる嶋田鯉三郎(元新城藩士)と妻女の梨枝(成資の実妹)が,当時杉平村に居りましたので,作手郷からも,修武舘へ通って剣道の手ほどきをうけたものが若干ありました。この修武舘の影響をうけて,大正,昭和時代の作手剣道が復活する端緒となりました。(つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で