巴山歌碑・磯丸歌碑 (作手見聞録)
もっと晴れてくるかと思っていましたが、雲の目立つ日でした。
昨夜、学校運営協議会でつくで交流館へ行ったとき、明日の作手中学校文化祭の作品展示がされていました。
中学生の作品、新城有教館高等学校 作手校舎の作品、報告パネルを鑑賞しました。
素敵な作品を観ることができました。
旧作手村が、地域情報をまとめたA5サイズの冊子『作手見聞録』を作成し、配付していました。数回の更新があり、表紙の異なるものがありました。
発行年が明確ではありませんが、手元にある冊子から順に紹介します。
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作手見聞録
作手の石仏と歌碑
巴山歌碑
作手村と額田町の境に標高七二〇メートルの巴山があります。この山は、豊川、矢矧(作)川、男川の分水嶺になっており、この山から流れ出した水が、三方三川に分流し、巴状態を呈しているところから「三河」という地名ができたと伝えられています。
この山の頂上に、この辺りでは雨乞いの神様として知られている白髭神社が祭られています。この神社の右側に三角の石柱が建っています。この石柱には、豊川、矢矧(作)川、男川の分水嶺が示されて、この三つの川にちなんだ歌が刻まれています。 ********
注)これまでの記事は〈タグ「見聞録」〉で
【掲載記事から】
◇巴山白髭神社 (作手の名勝と史跡めぐり)(2021/05/02)
◇三方にそそぐ川 (わたしたちの村つくで 改訂版)(2021/10/05)
◇つくで百話こぼれ話(1) (続 つくで百話)(2020/09/15)
◇『三河の国名と巴山』(つくで百話)(2019/09/10)
◇「セカンドハウス第一号 磯丸庵」(つくで百話)(2019/05/20)
◇「磯丸様」《作手村のむかし 28》(2018/08/10)
豊川 神代よりわきでる水の巴川いく千代へぬとしる人ぞなき 矢矧川 ともへやまその水上をたづぬれば藤のしずくに萩の下露 男川 つるぎたち三河の水のみなかみの巴山とはここをいふなりまた、この歌は、千載集の選者として知られる藤原俊成卿が若い時任地蒲郡で詠んだものだと伝えられています。 磯丸歌碑 糟谷磯丸は、明和元年(1764)に伊良湖の貧しい漁師の子として生まれ、八十五歳で亡くなりました。 その生涯を通じて、数万首の歌を詠んでいます。特に、火除、雨包、大漁、商売繁盛などを願う歌を人に乞われるまま沢山詠んでいます。 至誠一貫、真実一路、純粋に天地のなすがままに生きた磯丸の人柄は、多くの人に愛され、親しまれ、「磯丸様」と呼ばれました。また「歌聖磯丸」とも奉られ、他界してからは、「磯丸霊神」の号も贈られています。 作手村には天保10年(1839)、七六歳の時に初めてやってきました。村の人たちは、磯丸のために川尻の弘法堂を補修してあげました。磯丸はここを本拠にして、行脚して廻りました。作手の美しい景色と、清涼な人気、純朴な村の人の心にすっかリ惣れこんだからだと思います。村人に乞われるままに歌も作りました。 磯丸は春から秋までを作手で過ごし、寒くなると伊良湖に帰ったようです。磯丸庵は、彼のセカンドハウスであリました。