JAPAN GEOGRAPHIC。 2.(2-1) 奈良や京都に都があったころ (わたしたちの村)
暑い一日になりました。
先日,古い資料(2007年)を調べていると,「JAPAN-GEOGRAPHIC.TV 質の美」というサイトのメモがありました。
日本の自然と文化に関する教養コンテンツを世界に発信するサイトです。ここに,ハイビジョンビデオが約2000本,写真が約12万点収められています。 「資料」としての映像と画像です。トップページにも書かれていますが,娯楽目的には退屈ですが,教養,教育,癒しとしての利用には最適です。 このサイトは,瀧山幸伸氏を中心としたボランティアや通信員によって運営されています。このサイトに,地区の史跡についての情報が掲載されていました。 今もサイトが継続しているのか「JAPAN GEOGRAPHIC」で検索すると,WebやYouTubeなどが見つかりました。 運営が,任意団体から一般社団法人(2019年)へと変わっていましたが,全国の"美”が掲載・発信されています。 一度,閲覧・検索してみませんか。 ◇上質な日本を学ぶミュージアム JAPAN GEOGRAPHIC ◇「愛知県新城市 甘泉寺」(Mar. 2007) ◇「愛知県新城市 古宮城跡」(June 9,2019) ◇JAPAN GEOGRAPHIC(YouTube) 郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。 ******** (二) 奈良や京都に都があったころ 1 三河国と設楽郡 645年に大化の改新がおこなわれました。これによって,それまで豪族の持ちものだった土地や,そこに往む人々は,すべて大和朝延のものとなりました。そして,日本をいくつかの国に分け,国の中を郡に分けて治めることになりました。国を治める国司には,都の貴族がなりました。郡を治める郡司には,その地方の豪族がなりました。 左の地図は,そのころの三河国をあらわすものです。初めは三河の東部を穂国,西部を三河国とよんでいましたが,大化の改新のころ,一つの国に統合されました。そして,穂(宝飫)・八名・渥美・碧海・額田・加茂・幡豆の七つの郡がおかれました。三河国の国府は今の豊川市国府町におかれ,その名が今でも残っています。 その後,宝飯郡が宝飯(宝飯)と設楽の二つに分けられました。作手はこの時設楽郡に入りましたが,のちに南半分が宝飯郡に入ったこともあります。 設楽郡は,設楽郷が中心になるので,郷のなまえがそのまま郡のなまえに使われました。「シタラ」というのは,稲の穂がよく実って重くなり頭をたれる,つまり「下垂る」からきているという説があります。また,穂国と言われていることからも,三河はそのころから,米のよくとれる豊かな土地だとされていたことがわかります。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。 【おまけ】