6(2) 作手の由来 (わたしたちの村つくで 改訂版)
天気予報は雨でしたが,朝には上がっており曇った日でした。
気温は上がらず,花冷えの寒い一日でした。
旧暦3月3日(4/3)を過ぎ,雛飾りを片付け,五月飾りを出しました。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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2 奈良や京都に都があったころ
作手の由来
社会科の授業で,奈良時代や平安時代のことを習ったみねこさんは,そのころの作手のことを知りたくなりました。
多原郷から作手郷ヘ
645年の大化の改新によって,日本中の土地や人は朝廷のものとなりました。そして,いくつかの国に分けられ,国の中を郡に分けて治めることになりました。国を治める国司には都の貴族がなり,郡を治める郡司にはその地方の豪族がなりました。
作手はこの時,三河国の設楽郡に入りました。設楽郡の中の多原郷が,今の作手に近い広がりをもっていたと考えられています。多原郷については,くわしく書いたものがないのでよく分かっていませんが,左のような言い伝えが残っています。
このころの作手村は,どんな様子だったのでしょう。今も伝えられている長者伝説によって,そのころを想像することができます。 米福長者が,伝説のように「三河の三大長者」とよばれるほど大きかったかどうかは分かりません。しかし,そのころも使われていたと考えられる大きな「かめ」が,屋敷の近くから発掘されています。また,長者屋敷のあととみられる土塁の一部が,昭和30年代まで2か所に残っていました。その広さから,屋敷の大きさが分かります。 また,作手郷という名前を使った古いものとして,川合八幡神社の1536年(天文5年)の棟札がありますが,いつごろから,どうして作手の名前が使われるようになったのかは分かっていません。
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【「米福長者」のはなし】
この記事に出てくる「米福長者」について,他の記事で取り上げています。郷土読本の参考となった内容です。
◇「米福長者」(つくで百話)(2019/05/18)
◇米福長者(1) (つくで百話 最終篇)(2021/02/22)
◇米福長者(2) (つくで百話 最終篇)(2021/02/23)
◇「米福長者(よねふくちょうじゃ)」(つくでの昔ばなし)
注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。