2.(2-2) 奈良や京都に都があったころ (わたしたちの村)
天気のよい一日でした。
今日,久しぶりに数学の授業に参加し,「数学の学び」の話をしました。
学んで,「よく分かること」「分からなくなること」「新しく気づくこと」…。
子供それぞれの学びです。
学んで,「ああ,そういうことか」「○○と一緒だ」「なるほど」…。
そうした声が聞かれることが楽しみです。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(二) 奈良や京都に都があったころ
2 多原郷から作手郷ヘ
設楽郡の中には,賀茂・設楽・黒瀬・多原という四つの郷がありました。そのうちの多原郷が,今の作手に近い広がりをもつだろうと考えられています。多原郷については,くわしく書いたものがないのでよくわかっていませんが,次のような言い伝えが残っています。
景行天皇(日本武尊の父)のころ,日本武尊が,東の方のしたがわない者たちをたいらげるために,ここを通った時,まわりの山が高く,まんなかが平なので,ここを多原とよぶことにした。作手郷という名前を使った古いものとして,川合八幡神社の1536(天文5)年の棟札があります。その後のもので,「設楽郡作手郷」とか「富永庄作手郷」と書かれたものがありますが,いつごろから,どうして作手の名前が使われるようになったのかはわかっていません。 このように,武士の世の中になるまでの大むかしの作手のようすを,くわしく知ることはできません。しかし,今も伝えられている長者伝説によって,そのころのようすを想像することができます。
米福長者の伝説 天平年間(奈良時代)のころから,西三河には矢矧長者,宝飯には宝飯長者,そして作手に米福長者とよばれる豪族がいたそうです。この人たちは,三河国の三大長者といわれ,おたがいに親せき関係を結んでいました。 米福長者は,長者平の水戸ロに広い屋敷をかまえていました。それは,一辺が70メートルから90メートルもある四角形の屋敷です。屋敷の中にはかじやがあって,鉄のはものや農具を作っていました。また,多くの人々をやとってお酒もつくっていたというこどです。長者は馬を育てることにも力をそそぎ,市場をつくって,作手馬の名を広めました。 米福長者は,何百年ものあいだ栄えました。しかし,戦国の世の中になり,奥平氏によってほろぼされてしまったと言われています。この米福長者が,「三河の三大長者」とよばれるほど大きかったかどうかはわかりません。しかし,そのころも使われていたと考えられる大きな「かめ」が,屋敷の近くから発掘されています。また,長者屋敷のあととみられる土塁の一部が,昭和30年代まで二ヵ所に残っていました。その広さから,屋敷の大きさがわかります。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。