集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

高原吟社の狂俳と私(続 つくで百話)

花0428。 天気の良い一日でした。  買い物があり,久しぶりに“”に出かけました。店舗の駐車場,店内ではソーシャル・ディスタンス(social distance)を気にして動きました。  掲示や店内放送で「入場制限を…」も伝えていましたが,そこまでの混雑はありませんでした。  久しぶりに“他人(ひと)を見た”気のする時間でした。  野山の若葉が,目に鮮やかでした。心地よいドライブとなりました。  当市の小中学校の休校期間が再延長されたことは公表されていたのですが,SNSで知る「市教委の対応」は公表されておらず「???」。  明日は休日,連休が始まりますが,保護者のみなさんは,大丈夫かな。学校・先生方は,大丈夫かな。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「高原吟社の狂俳と私」の項からです。 ********     高原吟社の狂俳と私   林 其白(豊川市)  何年頃かはっきり記憶がないが,二十年近く前のことだったと思う。中村宙外翁が作手で還暦祝賀会を催されたとき,豊盛氏,白楊氏その他二,三の方と作手を訪れたことがある。  中々おおがかりな催しで,吟社の方々の素晴らしいアイデアで表装された白紙の軸が用意されており,即座に「何か書け」と出された時には,ちょっと尻込みしたが,引くに引かれず宙外翁のお祝いだからと海老に似たようなものを書いた覚えがある。 カット0428。 宙外さんが,あちこちの教員生活の至る所で狂俳人を養成された。──植林された若木が,すくすくと伸び,大木になり,今日の高原吟社を創りあげられることになった功績は大きい。と挨拶したように覚えている。  そして会終了後一献酌み交わし,終バスで帰途についたが物凄い揺れ方に,アルコールも手伝って五人全員へとへとになり,中でも私が重病人で,新城駅に寝込んでしまい,終車でやっと帰宅したのは思い出となっています。  昭和三十四年,作手為原文化協会巻の選をしたことがあって,その時,巻頭に据えたのが「史跡  合戦螢飛び交わす   半風子」であったことを後で知った。  その頃,半風子さんは作手村の高松小学校に勤めて居られたものらしく,後で知ったことだが合戦螢が多少問題にされたが,意欲的に創った句だから,気にしなかったが嬉しかったと話された。  それから,作手有線放送巻,昭和三十七年の禅源院庫裡新築巻。この時は,私も投吟して,選もしたが,その時の通り句は   庫裡のママ  背広着りゃおっ様ちはぬ   其白 という句が高点で入賞したことが今も記憶に残っている。  その他,私の選で 四番に選抜した   成り蔓   避姓薬免疫らしい という名吟はどなたのものだったか,よい句だと思っている。(四七,八,二二) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で