昭和の日。ひまわり。作手の狂俳(1)(続 つくで百話)
天気の良い暖かい日でした。
今日(4月29日)は,国民の祝日の一つ「昭和の日」です。
祝日法で,「激動の日々を経て,復興を遂げた昭和の時代を顧み,国の将来に思いをいたす」日とされています。
昭和時代は祝日「天皇誕生日」,その後「みどりの日」,そして2007年から「昭和の日」となりました。
ニュースが「今日からのゴールデンウィークは…。」と伝えますが,今年は新型コロナウイルスの感染拡大による非常事態宣言の下,いつもと違う“静か”で,“不安な”景色です。
Stay Home!! 昭和を顧みて,未来(あす)・アフターコロナを考える一日でしたか。
今日,花壇を耕して,「奇跡のひまわり(はるかのひまわり)」を蒔きました。
このひまわりは,“復興のシンボル”として,昨年のラグビーワールドカップの釜石会場で世界中の人々を迎えました。
会場を訪れた秋篠宮殿下,秋篠宮妃紀子様も,このひまわりをご覧になりました。
また,紀子様は,歌会始で「高台に 移れる校舎の きざはしに 子らの咲かせし 向日葵(ひまはり)望む」と詠まれました。
今年も,このひまわりが芽を出し,大きく育って,夏に綺麗な花が咲くように,しっかり世話をしていきます。
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の狂俳」の項からです。
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作手の狂俳 森本 鄙楽(川合)
俳聖松尾芭蕉の高弟で,三浦樗良という人が,昔,伊勢の国におり多くの門人をもっていた。或る時門人どもが「どうも,俳句ちゅうものは,季の制約があったり,高尚なことを詠んだりするので,わしらにはとりつきにくい。もっと気楽な,肩のこらない句はないものですか。」と尋ねた。そのとき樗良宗匠が「こんなものはどうか。」といって示したのが
伊勢まいり 大神宮へも寄ってくる
という一句であった。門人たちは「こりゃ面白い。これならわしらでもついてゆける。」と手を拍って喜んだそうだ。これが恐らく狂俳のらんしょうであったろう。こうして伊勢で始まった狂俳が尾張に伝わり,三河に流れこんできたもののようである。狂俳というものは,三河人の趣向にぴったりするものがあるとみえて,それが燎原の火のように三河一円に拡がったものと思われる。
狂俳はわずかに十二字であるから,俳句よりも短く,世界最短の詩というべきであろう。この短詩は,七五調でも,五七調でもよく,自由自在なところにも狂俳の大衆性が存在するようである。
活躍した人々
作手の狂俳についての私の見聞を,あれこれ拾いあげてみたいと思う。一句がたったの十二字で出来ている狂俳は,恐らく世界で一番短い詩ではあるまいか。俳句のように季の束縛もなければ漢詩のようなソク,インの制約もなく,極く卑近な問題を平易に述べる庶民文学であるところから,一般大衆の間に容易にとけこんでいったものであろう。
わが作手村内の神社や寺院に掲げられている狂俳奉納額をみると,古いものでは百五十年も前のものがみうけられる。これらの事から考えても,作手郷の狂俳はかなり古い時代から農民の間に浸透していたことがうかがわれる。
明治中期以降においては,まず第一に想起されるのは,鴨ヶ谷の弌天居宙外宗匠その人である。彼は元の八名郡大和村豊津の出身で,鴨ヶ谷の中村家に養子として迎えられたのであったが,青少年時代を過ごした豊津や賀茂地方は,昔から狂俳の盛んな土地であったから,早くして狂俳の素養を身につけていたものと思われる。鴨ヶ谷に来た彼は,鴨ヶ谷生えつきの狂俳人久嶋初吉(敷島園甫道宗匠)氏らと忽ち肝胆相照らす仲となり,狂俳熱を盛りあげた。鴨ヶ谷狂俳人は同志を糾合して鴨ヶ谷吟社を結成した。
その頃川合には峯田隆一氏(峯田可耕宗匠)があった。隆一氏は川合を中心とする白鳥地区の狂俳人によびかけて白川吟社を結成した。この白川吟社に対しても,宙外宗匠は何くれとなく指導の手をさしのべて,その育成に努力を惜しまなかった。
(つづく)
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