集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

ポンスケ一家(1) (つくで百話 最終篇)

花0324。 晴れて暖かい日になりましたが,室内にいると"肌寒い”感じがありました。  空気が暖かくなるには,もう少しかかりそうです。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「昔話と伝説」の項からです。 ********     ポンスケ一家  太平洋戦争の前頃までは,毎年春さきになると,どこからともなくポンスケの一団が作手郷ヘやってきた。彼等は二家族か三家族が一団となって移動していた。巴川筋では,大和田の空沢口と弓木の弓木渕の辺が彼等のキャンプ地として使用されていた。秋も半ば過ぎになると彼等はまた,どこかへ移動していった。夏中は同じ巴川筋で生活していたので,土地の人とも顔馴染みとなり,物資の交換などを通じて,親しく交際していたものであった。  ポンスケは日本のジプシイでもあった。彼等は天幕・夜具・炊事道具・釣具・鋸・鉈などの商売道具と,一通りの世帯道具一式を背負って歩いた。波等は,村へ入ってくると代表者が庄屋(区長)・地主などの家へ立ち寄って, 「夏中また,こちらさまの山でご厄介になります。よろしゅうお願いします。」と,たのむと,庄屋も「ああいいとも,いいとも。火の用心だけは呉々もたのむぞい。」と言うわけで,夫々ゆかりのある山でキャンプを張るのであった。  彼等がキャンプを張るとこは,川端で水の便のあるとこや,竹細工用の竹が容易に入手できる所が選ばれた。私共はポンスケと言えば川魚とりが本職と思っていたが,箕を作ったり,その修理をすることが彼等の本業であった。それに必要な竹や藤づる・櫻の木の皮などを採収することは黙認されていた。  それは明治三十九年,作手村が誕生して間もない春のことであった。三世帯のポンスケの一団が大和田へやって来た。毎年の慣例によって,区長の家を訪ねてキャンプ地の使用をたのんでから,長保ヶ山の川原で天幕を張ることにした。長保ヶ山のキャンプ地は,川向うにあるので巴川を渡らねばならない。道端に荷物をおろすと,三人の男は川岸へおりて行って,そこらに引っかかっていた流木の丸太を二本ばかりかついできて橋を架けた。待ちかねていた子供たちは,ガヤガヤしゃべりながら真先に橋を渡った。  去年天幕を張った場所には枯草が少しばかり生えていたが,そのまま使用することができる。  リーダー格の男が大声でどなった。 「俺たちは天幕を張るから女衆はクドをつくれ。子供たちは薪拾いだ。いいか。すぐかかれ。」  親父組・女房組と,それに子供組と,三つに別れて素早く行動を始めた。一時間半もすると天冪は張られた。男たちは,木蔭をみつけて笹竹をたてて便所の囲いを作った。もっともポンの便所としては川端で,たれ流しで用をすませたあと,川の水で尻を洗うことが多かった。  便所ができると,男たちは川原に風呂場をつくった。深さ一,二メートルくらい,風呂桶のような穴を掘ると,そこへ川水が浸透してくる。これがポンの風呂場である。風呂へ入る前に川原で火をたいて,手ごろの石ころを中へ投げこんで焼いた。熱くなった石を風呂場にほうり込むと忽ちぬるま湯になる。これがポンの風呂である。  その頃までには,女房どもが夫々の天幕のそばにクドをつくりあげた。子供たちが,川原や林の中から集めてきた枯枝や杉の葉が山と積まれた。  女どもが,川端で鍋に入れた米をとぐ。ほかの鍋には野菜がきざみこまれる。クドの火がパッと燃えあがる。青白い煙がゆるく立ち昇る。  設営を終った男たちは,早くも川岸に出て釣を始める。白ハエ・赤ブトなどが相次いで引きあげられる。獲物はクドの火で焼かれる。飯が炊きあがる。野菜のゴッタ煮・塩焼の川魚・野営料理は一時間足らずで出き上るのであった。   ポンのくらし  長保ヶ山の野営第一夜は静かに明けた。  ポンの一団がここにやって来たことがわかると,残飯をもとめて雀や頬白がやってきた。遥か彼方の雑木山では鴬も鳴いている。山鳩もポウポウないている。  川原の石ころには霜がおりて眩しく輝いていた。  親父の松造は天幕の外へ出た。 「今日も上天気だ。仕事始めに竹きりだ。おっかァも,かんば(桜の木の皮)や藤づるでも採ってこいよ」  囲炉裏ばたにいた小僧が, 「ガド(父)おいらもつれてってくれよ。兎とりの首っちょをかけるんだ。」 「よし,よし,みんなついてこい」と,言うわけで一家揃って出かけた。  子供たちは兎の道をみつけて,首っちょを仕掛けた。  箕をつくる材料の竹・藤づる・かんばなどが,次々に天幕の辺に運ばれた。  箕や笊つくりの材料が全部ととのうと,親父は, 「夕飯のご馳走に,あめのうおでも釣ってこうか。」と,すぐ近くの弓木渕へでかけて,一時間ばかりの間に,三〇センチもあるあめのうおを二・三十匹も釣りあげて帰ってきた。 「やい,小僧,お前らハラカラ(兄弟)で明日ァ山芋ほりでもせよ。今日,竹ぎりのときに太いつるをみつけて根こをさがしておいたでナ。」 「よし,山芋はおいらが引きうけた。メメ(母)明日ァとろろ飯だぞい。」  子供たちは,明日の山芋掘りをあれこれ想像してはりきっていた。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で