沖縄慰霊の日。 2.(7-2) 江戸時代の農民のくらし (わたしたちの村)
朝は雨模様の天候でしたが,日中になって晴れ間があり,そこに見えたのは"夏の雲”でした。
梅雨明けが待たれます。
今日は,沖縄戦から76年目の「慰霊の日」です。沖縄県に緊急事態宣言が出ているため規模を縮小し「沖縄全戦没者追悼式」が開催されました。
追悼式では,玉城沖縄県知事が平和宣言をし,中学2年の上原美春さんが平和の詩「みるく世の謳(みるくゆのうた)」を朗読しました。
◇【全文】平和宣言(玉城デニー沖縄県知事)2021年度沖縄全戦没者追悼式(琉球新報デジタル)
◇平和の詩 「みるく世の謳」全文(琉球新報デジタル)
◇社説[コロナ下の慰霊の日]記憶継承へ支援の輪を(沖縄タイムス+プラス)
【以前のブログ記事】
◇「懐中電灯を消してください」(沖縄慰霊の日)(2020/06/23)
◇沖縄慰霊の日。「平和の詩」2篇。(2019/06/23)
◇「沖縄慰霊の日」。(2018/06/23)
新型コロナウイルス感染症による"非常時”が続くいています。過去の"戦争”について話題にし"平和”について考える考える機会がもてているでしょうか。
子供達に,沖縄戦のこと,戦争のことを語り,平和について話し合ってください。それが,これからの子供の行動の変化につながっていくと思います。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(1995・平成7年 改定発行)の「二、作手のうつりかわり」からです。
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(七) 江戸時代の農民のくらし
2 入会山と山争い
江戸時代の林野(山林や草刈り場)には,募府が直接管理する御林と,大名や旗本が所有した林野,お宮やお寺が所有した寺社領,農民が共同で所有した入会山とがありました。このほかに,農民が私有した林野もありましたが,これはわずかなものでした。
むかしは,今の山のようにスギやヒノキが植えられた山はほとんどなく,大部分は雑木や草・笹などがはえていました。農民は,この入合山から,馬や牛のえさや,田畑の肥料にするための草を刈りました。また,たきぎや家を建てるための木を切ったり,屋根をふくためのカヤを刈りました。しだいに年貢の取りたてがきびしくなると,肥料や馬のえさにする草が多く必要となり,争いがおこるようになりました。このため,草刈りをする日や時間を決め,山へ入る人数や使う道具などを決めるようになりました。
作手の山争いの一番古い記録は,1637(寛水14)年の雁峰山の争いで,里方31か村(今の新城市西部と北部)と,山方六か村(布里・塩瀬・小林・杉平・田代・一色)が争った時のものです。
江戸時代の初めのころまでは,入会山の境は雁峰の峰となっていました。ところが,里方は田が広く,その上,年貢のとりたてがきびしくなるにしたがい,肥料にする草がたくさん必要になって,雁峰山をこえて作手や布里・一色の村までも入ってきました。このため,作手や布里の人たちは,自分たちの山をあらされないように力を合わせて里方の農民を追いはらいました。その後,三河の代官鈴木八右衛門と鳳来寺の月蔵坊というえらいお坊さんが仲裁に入って事件は収まりました。
このほかにも,1642(寛水19)年に,現在の下山村の羽布と,黒瀬・善夫・菅沼の四か村で郡境の争いがおこり,京都から専門の絵図師をよんで,山奥で絵図を書かせました。その絵図を書いた所が,下山村大字羽布字エス小屋だと言われています。この後も,たびたび境の争いがあり1781(天明元)年には,伊豆韮山の代官江川太郎左衛門が,田原の総特院ヘ泊って境争いの仲裁をした記録があります。このような争いは,明治時代まで続きました。
論地さま 1689(元禄11)年のこと,里方11か村(新城の内)が,雁峰山をこえて弓木村まで草刈りに入りました。このため山方三か村(弓木・小林・川手)が刃物や鉄砲をもち出して,柳沢という所で争いました。その時,弓木村の代表の一人が,里方の百姓にころされてしまいました。その人をお祭りしたのが論地さまです。 現在,弓木地区に南部簡易水道第四配水池がありますが,この横の治山用作業道を150メートルほど登った左のコンクリートブロック積みの上に,しめなわをはってお祭りしてあります。弓木の人たちは,今でも毎年春と秋に赤飯のおにぎりを作り,ねむの木の板のおぜんにのせ,お神酒は竹のつつに入れてお祭りします。******** 注)これまでの記事は〈タグ「わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。 【参考;平和の詩】