集団「Emication」別館

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大昔の稲作(4) (つくで百話 最終篇)

花1126。 青空の綺麗な一日でした。  風が冷たく,開けた窓も早めに閉めました。換気は…。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     大昔の稲作   西尾敏男  四、  稲作晨業がだんだん地について,その生産性が上ってくるころは,そこに住んでいる人達の生活も安定する。家中の皆が一定の所に住みつくことができる。それに,これまでのように,野に,山に,海に,河に,自然にできているものを追い,探し集めて生活しているころは,食糧に限度があるので,あまり多くのひとが集団して暮すことはできなかった。食糧を自分らの手で作って生活することになれば,住む人の数に応じて生産をふやせば良い。自立経済である。経済の計画性がもてる。何とか工夫して生産の増大を考えるのは当然である。水がなければ,湧水を溜める か,水路をつくって小川から引いてくればいい。  登呂の遺蹟は弥生時代でも後期のものといわれ,日本に稲がはいった初期から数百年を過ぎたものだが,水路もひき,畦道もつくり,相当の大工事をしている。四百米もの水路,一区画一反三畝から二反ぐらいの大きな田が三三枚,などが確認されている。まだ木製のクワやスキを主体にした土木工事であるから,相当の人手と年月が必要だった筈だ。家族だけの仕事ではない。多くの労働編成でなされたものといわれている。  その頃の住民は竪穴住居が多く,一棟が七坪半ぐらいといわれ,その中に炉もあり,柱も立っていて,実際に使えるのは十畳そこそこと見積られ,せいぜい五人前後,夫婦に子供二〜三人程度しか生活できないものであった。家族がふえるに従って棟数をふやし,老人や若夫婦は別棟に住んでいた。本家を中心に,その囲りに分家を建てていったのである。だんだんふえていって老人,子供をあわせ数十人におよぶ一族郎党が共同体となり,棟を接した五〜十棟に分かれて生活していたと椎定されている。本家を中心に分かれていった血族であるから,本家の親父は一党の家長である。その家長の指図によって毎年の稲作はすすめられ,収穫物はもちろん共有であった。穫れた穂米は家長の管理する高倉に貯蔵され,一族は必要量をその都度配分されるか,郎党の少いころは共同炊事もあったろう。  家長の率いる一族が,方々にできてくると集落になる。集落の人口は年と共にふえていく。お互いに田をふやさなくてはならない。場所のとり合いもはじまる。誰かが統制し,話し合いで決める必要が生じるのは当然の成り行きである。家長会議がもたれるようになり,やがてその中の勢力の強いものが集落の首長となり,首長の指揮をうけて集落が運営されてゆく。その首長の役割りとして考えられるものは「講座日本史(1) 都出比呂志」によると,次のようなことがあげられている。  1、開壁や水利。土木事業における世帯共同体間の協業の調整。鉄製開墾具の共同管理。  2、共同体蓄稲の共同管理。  3、鉄器,銅器,塩などの人手のための他の共同体との交易の処理。  4、農業祭祀の主宰。  5、共同体内部の法を犯す者の処罰,他の共同体との戦斗の組織。  先ほど述べた登呂の稲作集落の水田造成工事をみても,三万坪ともいわれる広い範囲に水田がつくられ,畦道をつくるのに何千枚という矢板が使ってある。その矢板というのは,長さ二米,幅三十糎,厚さ三〜糎の杉板で,その先が尖らせてある。山林から伐り出して板にし,沼地に運んで打ち込んだのである。一直線に打った矢板に平行して,一米間隔に杭を打ち,両者の間に丸太や粗朶を入れ,山土を盛って畦道ができている。こうした畦道で四囲を囲うと,その中が田になる。このような大掛りな仕事は一戸で出未る事ではない。家長会議で相談し,首長の指揮によ る村中総出の仕事であったろう。  このような規模の大きい水田造成が行なわれ,大面積の稲作がすすめられるようになったかげに,鉄製の工具の発達があった。斧をはじめとする木工具の開発,鉄製の刃先をつけた開墾鍬など,能率的で威力の高い工具や農具がでてきたのである。だが鉄製の工具や農具が一般に出まわるのは奈良朝時代にはいってからといわれ,この頃は貴重品であった。前述の首長の役割の中に鉄製開墾具の共同管理が筆頭にあげられているのもその為であろう。昭和四十年氏のはじめに,集落共同でトラクターがはいってきたようなものと考えれば良い。  鉄製木工具の出現が,木クワや木スキの増産体制を整え,さらに鉄製の開墾鍬の開発されたことによって,沼地のみにあった水田が半湿田へ,そして丘陵地の乾燥地へと開拓が進められてゆくのである。人が住むにも,じめじめした低湿地よりも高台の方が気もちが良い。  この頃の稲作もまだ直播きであり,収穫は穂首からの摘みとりであった。肥料もない。農薬もない。これという保護技術をもたない農家にとって,その年々の自然のうごきはおそろしい。冷え,長雨,暴風,大雨,洪水,早魃,害虫等々,どうする術もない。一切を天地精霊の仕業と考え,その霊をあがめ鎮めることによって豊作を祈ったのである。ことに先祖の霊は,自分たちを守ってくれているから粗末にしてはならないと信じ,先祖祭りを大切にした。雨乞い,虫送り,風祭り等々,稲の豊穫を祈る行事が行なわれ,それらも首長の大切な仕事であった。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【おまけ】  リツイートで知った動画。  4歳の息子さんの誕生日プレゼントがこの中に。  凄い。  粘土細工での再現も,この選択も。
  ◇The Breakfasteur(@TheBreakfasteur)Twitter)   ◇The BreakfasteurYouTube