感染症。大昔の稲作(2) (つくで百話 最終篇)。「食卓の誤解」。
朝,雲が目立ちました。小雨も降りますが,日差しもあり,変わりやすい天候でした。
気温は高く,上着のいらない一日でした。
先日,病院の駐車場へ入ると,いつもと違う感じがありました。建物の横に自動車が停まり,そこに水色の服装の人達がいました。
すぐに気づきませんでしたが,「発熱患者の診察」をしていたようです。
その後も別の自動車がり,看護師がいました。発熱の方の受診が増えているようです。
医療関係者のみなさん,よろしくお願いします。
新型コロナのPCR陽性者(感染者ではない)の増加で,「東京都で○○人,過去最多を更新…。」とワイドショーが“大騒ぎ”しています。
最下部に,2018年6月に国立感染症研究所・厚生労働省結核感染症課から発表された「今冬のインフルエンザについて」の推計患者数のグラフを載せました。それを見ると250万人を超えています。
陽性者が増加でなく減少するように予防に努めるのは当然ですが,マスコミの扱いは“何か違う”ように思います。インフルエンザで,今のような“騒ぎ”を起こしていませんでした。
インフルエンザ感染と新型コロナウイルス感染は,その“不安”の違いを,○○のために“高揚させている”のでは…。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
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大昔の稲作 西尾敏男
二、
田下駄というのは,隣りの静岡県の登呂遺跡からも出土している。沼田で足を吸い込まれないために使ったのだろうといわれ,下駄を長く大きくした形のものである。登呂は,弥生式文化時代後期の代表的な稲作農耕集落のひとつである。弥生式文化時代というのは,およそ二千年ほど前をはさんで前後三百年ほどの間をいうが,日本で最初の稲作農耕がはじまった頃である。それまでは採取経済ともいわれるころで,野山をかけまわって木の実をとり,弓矢をもって獣を追い海岸のひとは魚や貝を採って暮していたのである。
日本に稲がはいってきたのが,この弥生時代のはじめ頃で,南支那海沿岸や南洋方面で稲作をやっていた諸民族が,舟でやってきて北九州に上った。そのとき食糧の一部に持ってきたのが稲で,食糧用の籾の一部をあたりの湿地にまいたのが,日本の稲作のはじまりだという。野や山や海を走りまわって食べ物を獲り,少くなれば家族揃って新しい処へ移動していた当時の住民にとって,湿地はそんなに大切な処ではなかったから,何の抵抗もなく受入れられたのだろう。
南方から稲籾をもってきた人たちが,九州へ着いたのは幸いだった。例えば作手だったらどうだろう。たぶん穂は出ても青立ちになって,稲はダメだということになっていたと思う。もともと稲は熱帯地方が原産で,高温で湿気のある所を好む。北九州にはじまった稲作が近畿地方までは急速に広がっても,東海地方から東へ広がるのは大ぶあとになる。東日本の気象條件が,西日本にくらぺて稲作に適していなかったことと関係があろうといわれている。
人口がふえてくるに従って,木の実を集め,獣を追い,魚を採っての生活が次第にゆきずまって,食糧危機を迎えるのは当然である。そんなときに,入ってきた稲作だった。新しい農耕文化を受け入れる社会的条件もできていたのではないか。その普及は早く,弥生時代の後期には寒冷な東北地方にまで広がり,日本国中で作られるようになった。作手へいつ頃はいったかはわからないが,おそらく弥生中期以降ではなかろうか。というのは,平坦の湿地をえらんで波及していった稲作が,山を越え,川をさかのぼって山間地帯に進出したのが中期以降で,冷涼地に適する早生の品種を経験によって選び出し,これまで稔実の不良だった地帯へひろげてゆくことができるようになったといわれている。
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注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で
注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で
【おまけ;「食卓の誤解」】
ご存じですか。
夏(7月),惣菜コーナーで子供連れの女性が,高齢男性から「母親ならポテトサラダくらい作ったらどうだ」と言われる現場に居合わせたというTwitterへの投稿がありました。
このツイートをきっかけに“ポテサラ論争”が起こりました。
西友が17日に公開した『食卓の誤解』は,普段料理をしない男性2人が,2日間連続で家族の夕食作りに挑むドキュメンタリー風の動画です。
みなさん,いかがですか。
【参考】
◇「今冬のインフルエンザについて(2017/18シーズン)」
(国立感染症研究所・厚生労働省結核感染症課 2018/06/15)より