オンライン○○。 作手の狂俳(2)(続 つくで百話)
青空が綺麗で,ぽかぽかと過ごしやすい“行楽日和”の一日でした。
とはいえ,今は「Stay Home!!」。庭で日光浴ぐらいにして,家で過ごしましょう。
今日,連休明けの準備で,GoogleClassroomに資料や動画を設定する確認をしました。
思ったように設定できそうですが,これを“見る人(受け手)”の環境(ネット,機器)が分からず,独りよがりになっていないか不安です。
「始めから上手くいかない」とゆったりした気持ちで進め,初回で確認し,それに合わせた修正と対応をしていこうと思います。
「オンライン○○」は,これからに欠かせないツール・方法だと思います。今の状況を“好機”として推進してほしいと考えています。
「ネット環境が…」「皆が同じようには…」といった声の通り,すべての環境が整うとは思いません。けれども,推進し実現することで得られることは,その「差」を埋めることに取り組むより大きいと思っています。
いかがでしょう。
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の狂俳」の項からです。
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作手の狂俳 森本 鄙楽(川合)
(つづき)
宙外宗匠は,始め村役場書記を勤めていたが,教育界に転じ,小学校長まで昇進した篤学の人格者で,世話好きの好人物でもあった。八十余才で生涯を閉じられた一生は,実に筆まめで,持ち前の達筆で,後進指導のためには気づいたことを大小となく書き送り,懇切な教育をつづけられた。同氏の指導を受けたものは三・四十名を下らないと思うが,その教育にあたっては夜を徹しても徹底的に指導をされたのであった。所謂宙外流の筆跡による狂俳偏額は各所の寺社に数多く掲げられ,斯界における宙外宗匠の活躍の跡を残している。
鴨ヶ谷吟社と白川吟社は暫くの後合同して「高原吟社」と改称されているが,当時の指導者としては,前記諸氏の他に田原の総持院住職加藤麗洲師,戸津呂の佐宗九一氏(吐月庵一歩宗匠)等が熱心な指導啓発に当られた。
村外の指導者又は選者としては,一宮町長山の烏州園南海宗匠,豊川市の嶺雪庵其白宗匠,湯廼家半風子宗匠,贄執木宗匠,新城市豊島の竹下豊盛宗匠,東郷の楽天堂弥生宗匠,足助町の松井涙鳥宗匠,豊橋では白楊,湖山,湖柳,四友等の各宗匠のお世話になっている。
随分長い作手の狂俳史を顧りみると,幾多の試練を経て盛衰をくり返している。今日は,聊か斜陽の感もみとめられるが,戦後の勃興時代には川尻の阿部秀夫氏(古城),市場の菅沼豊氏(華宵),川尻の原田和男氏(朱草),中河内の柴田兵作氏(梅林),岩波の加藤貞唆氏(春仙),小林の峯田英一氏(愛山)等も目覚ましい作家活動をつづけられた。これらの人々は,何れも故人となって作手狂俳界から姿を消してしまわれたことは惜しみてもあまりある次第である。
狂俳には,昔は卑俗的な句が多く,本当に狂俳といわれるものが多かったが,最近は高尚で格調高い句を詠むのが多くなった傾向がうかがわれ,呼称も興俳とか郷俳という字を使用し大分内容が変わってきた。名古屋では「自由塔」という雑誌が発行せられ,豊橋では「土くれ」という月刊俳誌も出ており,若い人たちの良い研究誌であり,模範的なものである。
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