集団「Emication」別館

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春分の日。 3-1.12 「奥平貞能(3)」 (作手村誌)

桜0321。 今日は、国民の祝日の一つ「春分の日」、「春分日、自然をたたえ、生物をいつくしむ」日でした。  「春分」は二十四節気の一つで、太陽が真東から昇って真西に沈み、昼と夜の長さがほぼ同じ(厳密には真東や真西ではなく、少しずれており、すでに昼の方が数分長くなっている)になります。  「寒さ暑さも彼岸まで」といわれ、冬の寒さ(余寒)は、この頃までに和らぎ、凌ぎやすくなります。さらに、この時期の気候を「三寒四温」と言うこともあります。  気候の変化に留意しながら、春の陽気を楽しみましょう。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  先日の放送では、武田信玄が評定の場で示した図に「作手 奥平美作守」(平貞能のこと)が描かれていました。この後も「奥平」が登場するでしょうか。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏 どうする家康0321。  奥 平 貞 能 (つづき) 武田氏の三、遠攻勢により徳川家康頗る奔命に疲る、惟らく東三河の強豪奥平氏を招致して甲斐を牽制するの一方面に当らせんと本多作左衛門に重政に図らしむ、重政、奥平市左衛門に託して貞能に内意を伝う、貞能熟慮して未だその機に非らずとなし、謹んで厚意を謝するに止まる。家康、奥平氏の応ぜざるを憂いて織田信長に謀る。信長、西尾小左衛門吉次をつかわして言わしめて曰く、卿の息女亀姫を貞能の世子信昌に婚嫁せしむべし、玆に於いて本田豊後守広孝を使者となし貞能に説かしむるに、婚約のこと、領土加増のこと、且つ貞能の女を広孝の次男藤六郎重純へ入嫁せしめんことを以てしたり。  上洛の志を抱いた武田信玄は元亀三年十月甲府を出発し、その年十二月二十二日浜松の郊外三方原に於て徳川織田の連合軍を大敗させ(貞能三方原の戦に武田方として戦う)翌天正元年正月、山家三方衆(田峯の菅沼、長篠の菅沼、作手の奥平)の響導で三河国野田城(城主菅沼新八郎定盈)を包囲、二月落城す、三月十日、雙方野田中村の広瀬河原に至り、山家三方衆の人質と菅沼新八郎定盈とを取替えたという。  信玄病重りてか上洛を断念して軍を班す。天正元年四月十二日信濃国駒場に於て卒す。諸将遣命によりて喪を秘す、四郎勝頼その後を継承す。勝頼凡将ならずと雖も父信玄に遠く及ばざりしが如し、奥平方信玄の死を占いで実正と断じ、徳川氏の懇請に応ずるに決す。  天正元年六月二十二日、夏目五郎左衛門治員を浜松に遺わし信玄の死疑うべからざるを報じ、玆に帰参の内意を致す。天正元年七月家康軍を進めて長篠を包囲す。城主菅沼正貞、八月十五日城を脱して鳳来寺ヘ奔る、後正貞家康に内通していた事がわかり信濃の小諸に幽閉殺害さる。武田の後詰、救援ならざるを恥じ、且つ勝頼の怒らん事を恐れて、後詰の主将武田信豊の営に集り、浜松勢のせん滅を欲し、馬場信房は二つ山に控え、武田信豊、土屋直村は黒瀬に陣を移し、甘利勝吉は作手を守り、菅沼大膳、大熊備前、米倉丹後守等は設楽野に進み、家康の帰途を吉川筋の険隘に扼し、東西相挾みて掩撃せんとす、貞能又座中にあり、一決して衆退散するや貞能直ちに鈴木彦左衛門を徳川氏の陣営に急派し、秘計を秘報し、併せて帰参決行の日時を告げて援軍の派遣を請う。家康大いに驚き深く貞能の誠意を悦び、且つ救援を約し、即時令を軍中に伝へ潜に久間山より吉川村の渓谷を横ぎり間道を通過して浜松へ帰る。甲斐の将、貞能の漏洩によるものならんと猜疑す。田峯の検使城所道寿亦貞能の内通によりて計画の阻断するを訴う。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で  注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。