強い寒波により、厳しい冷え込みになりました。
屋外はもちろん屋内も低温で、部屋にいても、肌を刺すような寒さを感じ、暖房が切れませんでした。
これだけ低温になり、場所や部屋による温度差が大きく、体調が乱れがちです。“
ヒートショック”への注意が呼びかけられています。みなさんもお気を付けください。
『
作手村誌』(1960・
昭和35年発行)は、最初の7名の「
序」に続いて、発行者の
作手村教育委員会の「
はしがき」が載ります。
本誌の編集・発行について伝える文章ですが、その書き出しは「
広葇実に一一七万粁、海を…」です。今では「
粁」を使うことはないでしょうが、「
キロメートル」と読むことは分かります。検索すれば、すぐ見つかると思います。
しかし、書き出しの二文字目「
葇」を知りませんし、最初の「
広葇実に」を読めません。“
広葇”なのか、“
広葇実”なのか、言葉も意味も分かりません。
普通の言葉であったかどうか分かりませんが、“
昭和35年の大人”には読める言葉・文字であったはずです。
時代を感じながら、読んでみてください。
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はしがき
広葇実に一一七方粁、海を抜くこと五〇〇米級の高台、私達の作手村は千古の翠緑を誇る山林と豊かな農耕地に恵まれた環境の中に五五〇〇の人口を擁する素朴な農山村でありますが遠く遡っては太古先住民族生活の跡も伺われ、降っては飛鳥、天平の古事伝説に或は又戦国の世の史談史績に星霜畿春秋の変遷を謳われた由緒深い地域であります。
更に又一面俗塵を離れた快適な自然は既に愛知の軽井沢として都人に親しまれ、中央の湿地草原亦特殊植物群の宝庫として近時学界に注目されるに至って居ります、由来この地を郷土とする村民、何れもよく農耕山林の業にいそしみ相携えて産業を振興し、文化を開発し、村制を布いてこゝに五十有余年、以って今日を築いて参りましたが只一つ残念に思われることは此の村にして未だ村誌を持たざるわびしさでありました。而し之に就ては嘗て先輩有識者の間に於て已に其の企ての持たれた事実を伺い、改めて篤志を讃えるものであります。
本教育委員会は夙に村誌の重要性を通感すると共に先輩の遺志を尊重してその発刊を企劃し、昭和二十九年四月本誌の編纂を進めることと致しました。然るに幸にも編纂当事者に有能敏才の諸彦を得、村当局、官衛学校、神社寺院、先輩古老有識者の各位から絶大な協賛を賜わり、こゝに目出度く稿を脱するに至りましたことは感激の極みであり謹んで感謝の意を表する次第でございます。
希くば本誌の刊行によって聊かなりとも村の認識を内外に弘め、愈々愛村愛郷の良識を培い、以て将来のよりよき郷土社会の建設と繁栄との上に寄与する所あるを祈ってやみません。
昭和三十五年三月 作手村教育委員会
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先に紹介したように、この『
作手村誌』は1960(昭和35)年の発行ですので、
活版印刷です。974ページの原稿について、活字を1字ずつ拾い、組み版にして印刷しています。
前回載せた奥付を見ると、「
印刷」には住所と個人名が記されています。屋号もない小さな印刷所であったと想像できます。組み版の作業や印刷に、長い時間がかかったことでしょう。
本誌の内容とともに、こうした職人の技を味わいたい思います。
注)
これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
【参考】