集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

協議会。 3-1.10 「奥平貞能(1)」 (作手村誌)

桜0317。 天気のよい日でした。  書籍と資料を見に、他市の図書館を訪れました。館内が広いこともありますが、書架の配置や椅子、衝立(目隠し)などの配置が工夫されており、心地よい空間です。  ゆったりと読書することができました。  今夜、第3回作手地区学校運営協議会が予定されています。  本年度の園・小・中学校の活動が報告され、今後の予定や計画を検討し、意見交換があります。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏   奥 平 貞 能  貞勝の長子定能、後貞能、小字仙千代、九八郎、監物、官従四位、美作守。第百五代後奈良天皇の天文六年四月八日作手亀山城に生る。第百六代正親町天皇の永祿三年五月十日、今川義元駿、遠、三の兵四万五千を率いて駿府(今の静岡)を発し織田信長尾張に撃たんとす。十七日三河国池理鮒に至る。徳川家康岡崎より加わりて先鋒たり。貞能今川氏の命により家康の軍に従う。十八日丸根城(城将佐久間大学助盛重)に向う。十九日城兵門を開きて突出す、山家三方衆に向いて挑戦し来る。田峯、長篠勢退却す。貞能奥平の士卒を励まし一族老臣以下奮戦す。城将盛重火砲に中りて殪れ、余衆死傷遁逃して城全く陥る。家康貞能の殊功を激賞し、更に七族久兵衛貞友、出雲貞信、与衛門勝正、周防勝次、治左衛門勝吉、右衛門義次、土佐定雄。五老 山崎善兵衛重宗、生田玄蕃(兄市蔵の代理)、兵藤新左衛門勝末、黒谷甚兵衛重氏、及び夏目五郎左衛門治員(老臣並)を引見しその功を労いて田原鏃(田原鏃は渥美郡田原住、鍛冶の名入竹五郎八の作るところ) 世にこれを田原鏃として賞美す)各五十本を給う。  永祿四年十月菅沼刑部貞吉島田城によりて徳川氏に声援す、貞能兵を率い自ら陣頭に立つて指揮す、士卒大いに奮うて敵兵を走らす。この戦、助次郎包久(貞昌の弟貞包の子)黒谷半六と相討になり、兵藤五郎太夫首級を得たり、その他斬獲多し。永録七年春徳川氏の招請に応じ一族を挙げて今川氏を離る。永録八年貞能の弟源五衛門常勝、武田信玄を慕うて甲斐国へ奔る。生田玄蕃之を刺さんとして追躡す、途に大雪に遭うて死す。永録十年美作守に任ぜらる。 貞能0317。 第百六代正親町天皇の元亀元年三月、織田信長越前の朝倉義景を討伐、徳川家康これを援け、三遠の兵八千を率いて浜松を発す。貞能軍に従いて越前敦賀に赴く、功あり、元亀元年六月、貞能世嗣信昌を伴い酒井氏の部下にあり、八百人を提げ榊原康政等と姉川を渡り朝倉勢に当り奮戦す。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で  注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。 【メモ;職員の異動検索】  中日新聞東京新聞に「教職員・公務員の異動」が掲載されるのに合わせ、ネット検索できます。  すでに発表された県や市の異動が調べられます。
名簿検索2023。