集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

天皇誕生日。米福長者(2) (つくで百話 最終篇)

花0223。 青空の綺麗な晴れた日でしたが,強く冷たい風の吹き荒れた一日でした。  夕食に,初物わけぎがありました。ぬたでいただきました。美味しゅうございました。  大地の恵みに感謝。  今日は,国民の祝日天皇誕生日」でした。そして,日本の「国家の日」「ナショナル・デー(National Day)」(Emperor's Birthday)です。  平成から令和へと時代が変わり,今上天皇(第126代徳仁天皇)の2度目の天皇誕生日も,新型コロナウイルスの感染拡大防止のため,祝賀行事は縮小し,一般参賀は中止でした。
○ 今しばらく,国民の皆さんが痛みを分かち合い,協力し合いながら,コロナ禍を忍耐強く乗り越える先に,明るい将来が開けることを心待ちにしております。 ○ 新型コロナウイルス感染症の感染拡大によって様々な制約が課される中,子供たちのたくましさや人々の優しさを今まで以上に感じる話を聞くことができました。 ○ 昨年は戦後75年でした。節目の年を迎え,戦争の悲惨さと平和の尊さを今後とも心に刻んでおかなければならないとの思いを新たにいたしました。 ○ その土地,その土地の雰囲気を肌で感じるなど,実際の訪問でなければ成し得ない部分はあるものの,感染が収束しない現状では,オンラインは有効な手段と考えられます。オンラインはそれなりの課題というものも(略) これからはそういうものを使っていきたいというふうに思っております。
 記者会見でのお言葉です。    ◇天皇陛下お誕生日に際し(令和3年)宮内庁)  2681年の永い歴史を繋ぐ皇室のありよう,そして日本の将来を思う日でした。  みなさんはいかがお過ごしでしたか。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。  前稿「米福長者(1)」の続きではなく,別の筆者によるものです。 ********     米福長者(2)   竹内大三郎  昔,むかし作手郷に米福長者という大富豪がありました。その頃,矢作の兼高長者と宝飯の宝飯長者とともに三河の三長者として,大きな権威をうたわれておりました。  米福長者は,どこかの武士で作手郷へ来たものといわれており,大地主で,酒造業と牧畜をやっておりました。その屋敷は,今の新城高等学校作手分校の辺を中心とする一帯で,木戸口・中屋敷・西の内縄手などの地名に,その名残りをとどめております。大正年代に,作手農林学校の敷地造成を私たち在枚生がやったとき,敷地の東北の畑から白素焼の壷──神事に使用したと思われる──の破片が沢山でました。無関心だった関係者は,棄ててしまいましたが,今なら学術調査の貴重な資料として取扱われるものをと借しまれます。また,元県道新城挙母線の改修工事が行われたとき,峯田薫さんの屋敷続きの竹薮の地中から鍛治部屋跡らしい所が発見せられ,沢山の金クソとともに鍛治用具などが出ました。長者は屋敷内に鍛治工場を持っていて,農具や酒造用具,その他の鉄器を製造していたと言われています。  米福長者は,馬の増殖にも非常な努力をいたしました。親馬を農家に貸した時は,仔馬を引きとるときに,その値段の二分の一を農家にやる。二歳馬を貸したときには三分の二。当歳を貸したら四分の三をやるというような条件で取引きをしたから,長者の懐には莫大な金がころがりこんできたのでした。  長者は,持馬を近郷の武士に売りつけたから,長者の資産は雪だるまのように増えていきました。また,長者はその持金を武士に貸付けたから,その利息が入ってくるという具合で,長者の財産はふえるばかりでした。この馬匹による財産造りは,その後も作手郷に伝わっておりまして,明治の御代になってからも作手馬の名声は三河地方に喧伝されていました。 米福長者0223。 長者は清岳地内に酒・農産物・馬などを売る市をつくりました。そのために市場という村ができたのでした。  長者が酒を造った酒粕を,付近の沼地にすてたのがたまって,小山のようになって粕塚といわれておりました。長者はここに八幡社を建立しましたが,これは農業構造改善事業の施行された今でも小山と共に残っております。  長者は殊の外信仰心が篤く,紀州熊野から天神七代・地神五代の神々を勧請して,十二所大権現として祀り,木乃花咲耶姫命を祭神とする子安地蔵を祀り,長者平の氏神としてお祀りしているのであります。十二所神社の神殿の中には,長者の自作といわれる長者の木像も安置されています。  明治時代に十二所神社の社殿の屋根裏から,金銀・朱王などの財宝を埋めたという木札が発見されて大騒ぎをしたことがありました。財宝が埋められたのは,八幡社の境内ではないかというので,八幡社のご神体を十二所神社に遷して発掘しましたが,財宝らしいものは見つからず,長者平で火事が相ついでおこりましたので,神罰とおそれて発掘を中止し,御神体に元の場所へお戻り願ったのでありました。  長者の家には,米一升を喰わせると黄金一升をひる犬がいると言われておりました。この犬というのは,農奴だったろうとも言われています。これらの犬が,一団となって長者の家から逃げだしましたが,宮崎の大代峠で巡視のものに見つかりました。この集団の先頭は南方に,後尾は北方に分けることで事件は落着しました。  その後,南方のものは,この犬を上手に使って富栄えましたので地名を千両と名づけ,同地の氏神を犬頭神社としてお祀りしたと言われています。  長い間,米福長者として富栄えた長者一家にも病人続出で落目になりましたところへ,武田軍の作手侵入で,莫大な軍用金徴発を命ぜられ,苦境に追い込まれました。  長者一家は,難をのがれるために川合の隠洞にかくれましたが,武田の雑兵に発見せられ,打ち首となりました。幾百年の長い間,作手郷に勢威を揮った米福長者も,ここに全く消滅したのでした。 ********  昨日の『米福長者(1)』,以前に紹介した『「米福長者」(続 つくで百話)』,そして,「つくでの昔ばなし」に掲載された『米福長者(よねふくちょうじゃ)』も,合わせてお読みください。  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で