集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

米福長者(1) (つくで百話 最終篇)

華車0222。 暖かい日になり,当地でも日中15度を超えていました。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     米福長者(1)   山田慶  高い本宮の峰をいくつか登りつめていきますと,やがて目を見張るような平地がひらけてきます。ここが作手の里です。ずっと遠くには小高い山が連なって,この平地をとり囲んでいますが,誰だってここ全体が高い山の上にあるとは信じられないほど広々としているのです。ですから,ここは昔からどっさりとれるお米で,みんな楽なくらしをしていました。  なかでも,米福長者は,この平地のまん中に大きな屋敷を持っていて,ここでとれる質のよいお米でお酒を造っておりました。それは大変なお金持ちでありました。屋敷は今の家なら何軒もすっぽりはいってしまうほど広く,まわりは堀をあげて土盛りをし,堀には石を敷きつめて,いつもきれいな水が音をたてて流れておりました。酒造りといっても,昔のことですから鉄を打って道具を作ったりする仕事もあります。屋敷の中には鍛治場もありました。きれいな水がこんこんと湧き出る大きな井戸もありました。また,蔵にはたくさんの炭・うるし・朱など,いつでも用意してしまってありました。大きな池のそばには,大きなカヤの木が立っており,その木の下には金山神をおまつりしてありました。いまでは,この長者の屋敷跡一帯を長者平と呼んでいます。  この米福長者は,大へん心がけの良い人でした。神や仏を厚く信じ,人には情深くしました。村に病人があれば心をこめて見舞に行き,くらしに困る人があれば出かけて行って助けてやりました。  寒い冬は,米福長者の屋敷は酒造りで大いそがしになります。つばきの花が咲いて散り,長者の酒ぐらが新しい酒でいっぱいになる頃になると,おまつりが行われます。そのおまつりの日には,長者の家の門が開かれ,酒がめが並べられて,訪ねて来る人は誰でも自由に飲むことができました。遠くの村からも,長者の家へ集ってきました。神様にお供えする酒は特に念を入れて造りましたから,すばらしい香りや味がして,黄金色に澄みとおっていました。それに杉の葉をかざり,りっぱなつぼにおさめて,長者が神様に捧げるのでした。 版画0222。 毎年正月頃のある晩(旧霜月の酉の日)になりますと,夜中すぎに長者屋敷の跡で,にぎやかに大勢の人の話し合う声が聞こえるということです。  酒をとったあとの酒粕は,屋敷からずっと離れた平地のむこうの聖地として選んだ場所へ運んで埋めました。それがずっと積って小山になりました。人々は,そこを粕塚と呼びました。今では,そこに八幡さまをおまつりして,こんもりしげった森になっています。  こんなに栄えた米福長者も,いつの世にか,だんだんと衰えてしまいました。侍に大金を貸したために破産してしまっただろうとも言います。あるいは武士の勢におされて,どこかへ逃亡しなければならなくなったのかもしれません。  ずっと後の世になって,米福長者の屋敷のあった近くのお宮から 「うるし千べん 朱せんべん 黄金千ぺん 朝日さす 夕日かがやく よし三本のもとにうずめおく」と,書いた木礼が見つかり,大騒ぎとなりました。長者平の人々は,この歌のもとは粕塚であろうということで,大ぜいで幾日も掘ってみました。  けれども何一つ出てこなかったということです。   米福長者屋敷あと 南設楽郡作手村大字高里字長者平木戸口(愛知のむかし話) ********  「米福長者」について,『つくで百話最終篇』では本稿と次稿で述べられています。  これまでに紹介した『「米福長者」(続 つくで百話)』,そして,「つくでの昔ばなし」に掲載された『米福長者(よねふくちょうじゃ)』も,合わせてお読みください。  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で