集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

七五三。「作手のあけぽの」(続 つくで百話)

紅葉1115。 朝から夕方まで,雲一つない青空でした。このところの冷え込みで,紅葉の美しさが増しましたが,例年より遅い気がします。  みなさんのところは,いかがですか。  今日は「七五三」です。  3歳(女),5歳(男),7歳(女)の11月15日に,神社や寺などに詣で成長を祝う行事です。  七五三の起源は,三歳の男女の「髪置き」,五歳男子の「袴着」,七歳女子の「帯解き」のお祝いです。  江戸時代には,武家や裕福な商人の間でも行われるようになり,明治時代になって3歳・5歳・7歳の三つの祝い事をまとめて「七五三」と呼ぶようになり,庶民の間にも広まりました。  子供達が健やかに成長することを願っています。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)       作手のあけぽの  考古学では土器の有無を基にして,文化を二大別し,土器をもたないプレ縄文期──旧石器時代(一万年以前)と,縄文・弥生期──新石器時代(一万年以降千七・八百年位前まで)としていますが,作手に始めて人類がその足跡を印したのは,どうやら旧石器時代の終わりごろらしいのです。  私はこの春,作手に旅して,村の教育委員会から遺跡特集号と銘打った「こうやまき」第二集をもらいました。それには村内二十二ヶ所の遺跡が写真入りで紹介してあり,それらは概ね縄文・弥生時代のものでしたが,中に二つ注目すべきものがありました。長者平・木戸ロ遺跡のナイフ形石器と,戸津呂・布路遺跡の尖頭器です。前者は物を剪るため,後者は鎗の穂先として使用したものですが,惜しいことに出土の状態が不明です。  縄文・弥生など新石器時代の遺物は,すべて黒土の中から出ますが,旧石器はその下の赤土の中から出土します。いくらその形が似ていようと,いや石器そのものが,真正の旧石器であろうと,確かに赤土の中がら出土したという確証のない限り,学問上では問題にならないのです。誰かに持ち運ばれて,そこにすてられたものか,それともそこから出土したのか,遺物だけでは判定がつかないからです。そこが確かに遺跡だという証拠がなければ,考古学は採り上げません。しかし実際問題として,考古学とは何かさへ知らない村人が,わざわざ他所から持運ぶはずはありませんし,そこから出土したと考えても,恐らく大過はありますまいが──。  そうすると,大づかみに一万年以前,作手村に最初の足跡を印した旧石器時代人,それにつづいて縄文文化人,弥生文化人,古墳文化人とつぎつぎに住み続き,やがて今日の作手村の原形が出来上るのですが,それらの人々の足跡はたどれるでしょうか。プレ縄文や縄文文化の人々は吾々と追って,農業を知らない人々でした。木の棒や石の握槌,さては石斧を用いて土を堀り,ものを切り,石簇をつけた矢を飛ばして鳥獣を狩り,骨の銛や釣針,石の錘をつけた網をつかって魚を漁り,木の実や草の根を集めて食するという,採集経済が生活の根本でした。したがっていつも食うことに追われ,一朝不順な天候に見舞われると,たちまち飢餓にさらされました。  ただ食っていくだけなら,一集団の人数は少ない方がいいのですが,余り少ないと猛獣毒蛇の脅威から身を守ることができません。そこで食物資源に似合った集団の規模が生まれ,食料採集圏が設定されます。そして互に犯しもせず犯されもせず,やってゆける適度の空間をおいて,他の集団が住んだわけですから,遺跡の立地はどびとびになります。また集団の人数も,時がたてば自然に増加します。そうなると従前の縄張りでは食ってゆけなくなり,集団を分割するか,新しい食料採集圈を見つけなければなりません。従ってI地にとどまる期間は永いものではなく,頻繁に移動が繰返されました。作手の遺跡が小さいのはそのためです。こうして一度去った後は,次の集団がやってくるまで,そこは無人の山野にもどるわけで,遺跡は泡の如く生れ,また泡の如く消えてゆく。こうした生活の繰返しが先史時代の作手の姿でした。  そして人々がやっと腰を落つけて,一ヶ所に村を作って定住できるようになるのは,弥生文化に始まった農業が次第に普及し,水田に稲が栽培されて食料生産が計画的になる,古墳時代後期のことで,作手地方ではいくら古くみても,五・六世紀をさかのぼることはないでしょう。  同じ山の村でも,作手盆地は名倉盆地に比し約二倍の広さをもっています。にもかかわらず作手村の遺跡で,県の遺跡台帳に登載されているのは,一五ヶ所にすぎません。これを名倉の六八ヶ所にくらべると余りにも少な過ぎます。  私は昭和二八年三月と四月の二回,作手にお邪魔して石器時代遺物の探索をしたことがあります。当時編纂中の北設楽郡史のため,隣接地方の史料を集めるためでした。今は故人となられた原田柳嗣氏が教育委員長で,特別の便宜をうけ,村内東道の労をとって下さいました。都合六日の遍歴で,作手村内で一六ヶ所,鳳来町内で七ヶ所,合せて二三ヶ所の遺跡を見つけました。採集した遺物は新石器時代と中世が主で,不思議と古墳時代がぬけていました。これだけ広大な水田地帯を擁しながら,何故土師器須恵器が見つからないのか。粕塚や武士塚,姫塚など,古墳かと思われるものもありましたが,たといいくら外形が似ていようとも,古墳としての特徴である石郭や副装品があれば格別,土師・須恵の散布地すら見つからない時点では,古墳とは言えないと思いました。  あれから二十年──作手の考古資料は一向に増加していません。現在の知見では土師器は木戸口遺跡一ヶ所だけ,これを名倉の古墳一六基,古墳時代遺跡三四ヶ所,奈良時代まで下げれば五〇ヶ所近いのと比較するとき,作手村の乏しさが真実とは信じられないのです。作手に遺跡がないのではなく,探し出さないからではないでしょうか。  「こうやまき」特輯号では粕塚を古墳と認め,塚上に八幡神社があるところから,八幡神社古墳として載せ,しかも中期の帆立貝式古墳としています。前に述べたように傍証すらない現在,これを古墳と認めるさえ冒険であるのに,ただ現在の外形が前方後円墳に似ているというだけで盛期の中期古墳とするのは如何でしょうか。帆立貝形にしても,周囲が悉く水田に開かれ,残った地形がたまたま貝形をしているというだけのことで,開墾以前の地形を考えると,野地にポツンと置かれた円塚が目に浮びます。中期古墳を生むほどの土地なら,後期の小円墳が付近に多数群をなして存在し,これを営んだ人々の生活の場──,聚落址が発見されなければなりません。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で