初午。「第二次世界大戦前後の作手の様子」《父母が子どもの頃 5》
天気の良い日でしたが,風が冷たく,“寒い日”でした。
午後,地区の神社で初午神事があり,お詣りしました。
初午は,2月最初の“午の日”を言いますので,今年は2月2日でした。その日に神事を行うのが本来でしょうが,例年2月中旬の日曜日か祝日に行っています。
初午祭は,稲荷社の本社である伏見稲荷神社に由来します。稲荷の名は「稲生り」から来たともいわれ,伏見稲荷神社の祭神 宇迦之御魂の神は,五穀をつかさどる食物の神,農耕の神といった農業神でした。
そのため,農村では蚕や牛,馬の祭日としてもいました。初午の神事は,春の耕作の初めに田の神を山から里にお迎えするという意味もあったそうです。
これから始まる農作業,作物の生育が順調であることを願ってお詣りしました。
文集「こうやまき」(1970年・刊)から,「父母が子どもの頃」の一話です。
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『第二次世界大戦前後の作手の様子』 (文・開成小6年 女子)
昭和十二年に支那事変が始まって戦争に行く兵隊さんを高里まで送って行った。そのころのおかあさんの服装は,長い着物に,まっ白い前かけで大日本国防婦人会と書いたたすきを肩にかけていたという。それがいまでも印象に残っているそうだ。
そのころの食物は,普通だった。けれども,農家では現金収入が少なかったので,今よりずっとそまつな物を食べていた。たとえば,おかしなどはあめ玉か,おせんぺいのようなものがおもで,おまんじゅうや,羊かんは特別な事でもなければ食べられなかった。そのころ作手の店には,パンやカステラ,チョコレートのような高級なおかしは,売られていなかった。りんごやみかんなどのくだものも一年に数えるほどしか食べなかった。ごはんのおかずもそのとおりだった。
子どもたちの服装は,洋服になってはいたけれども,冬ははんてんを着ていた。はき物は,ゴムぐつが多くて白いズックの運動靴は珍らしいほどだった。
だんだん戦争が大きくなって,昭和十六年十ニ月に大東亜戦争になって村の人の生活が戦争一色にぬりつぶさ
れるようになった。学校の教科書にも,戦争のことがたくさんのせられるようになった。
服裟は,男子の服は国防色といって草色の服が多くなった。女子は,長いたもとやスカートから,モンペ姿に変わっていった。そのころから「ぜいたくは敵だ。」という標語がなにかにつけてつかわれるようになった。そして,食料も衣料も配給制になって,生活はきびしくなった。あちこちで,戦死した人の話を聞くようになったのもこのころであった。また,甘い物やお砂糖はすっかり見られなくなってしまった。そして,村の人たちの姿から明るい色がなくなっていった。このころ村にはとなり組という制度ができている。そうしているうちにも,戦争はどんどん大きくなって,国の政治は軍人が中心になって行なっていた。昭和十八年ころから食料がものすごく乏しくなって,こうりゃんや豆粕を食べるようになった。みそもさつまいもを原料にして作った物で,塩も岩塩といってあらく,きたない物であった。そのころのおやつで,さつまいもやじゃがいもなら上等な物であった。
そのうちに敵機が日本の上空に来るようになったので,村人は,防空ごうを作って,たいひの練習をする日が多くなった。学生たちは,町では工場に行き,村では食料増産にはげむような教育をされていた。そして十九年の五月ごろから「玉さい」といって全員死んでしまう戦争の話も聞かれるようになった。それでも,国じゅうが戦争は勝つと信じていた。
村でも働ける人はみんな,竹やりや火たたきの練習をしていた。そしてこの村にも,町から多くの人が疎開して来てにぎやかだった。学徒動員とか女子挺身隊などとうことが聞かれたのもこのころだ。そして十九年の六月ごろからB29が本土を爆撃するようになった。そのころは誰もが貴重品のはいった袋と防空ずきんといって,綿のはいった帽子をいつも持っていた。そんなきびしい生活をしたのに,二十年の八月の初め,広島に原爆が落され,多くの人が一度に死んでしまった。そして,とうとう十五日には戦争が終わった。日本は負けた。おとなも子どもも泣いた。明日からどうなるかわからなかったからだ──。
私は,こんな時代に生まれてこなくてよかったなと思った。もし,こんな時代に生まれてくれば,今まで書いてきたような生活をしなければならないからだ。当時,生まれた人は相当な苦労をしただろう。どうして戦争なんかしたのだろう。私は平和が好きだ。
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戦後73年が過ぎ,「戦争のこと」「戦時中の暮らし」を,自身の体験として語っていただける方が,少なくなっています。
語る,聞く機会を“強引に”でも設けることが必要です。でも…。
貴重な作文が,ここにあります。
こうした作文に綴られた“戦争”を,今の子供達が受け取り,繋いでいけたらと思います。