集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

3-1.8 「奥平貞勝(2)」 (作手村誌)

ディズニー0307。 よい天気が続き、今日も暖かい一日でした。  木々の芽が色づき、草花が大きく育ってきています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏   奥 平 貞 勝 (つづき)  第百六代正親町天皇の元亀元年九月、甲斐の武田信玄、武将秋山春近をして東三河の山中を焼動せしむ、三方衆悉く敗る。田峯・長篠の両菅沼等その猛威に懼れて悉く降るも、独り作手の奥平氏は城を堅くして出でず、諸将を集めて去就を謀議す。貞能、信昌父子は徳川氏に止らんと唱うるに反し、貞勝は、四近皆武田氏に帰し我が寡兵の能く保つ能わざる所なり、暫らく鋒を避け、質子を致して武田に降るに若かずと強説し、貞能・信昌父子及び列座皆之に従う。  第百六代正親町天皇天正元年の春、属臣奥平出雲某故ありて立退き武田氏に直参す、出雲は和田出雲貞盛の裔にして七族の第一座たり、これより先貞勝、額田郡雨山の阿知波定直の勇敢抜群なるを愛でて従属せしめんとし、一族夏山勝正(額田郡夏山の領主)を遣わす。勝正、定直に説きて曰く、来属せば余の上位に列せしめんと、貞直肯んぜず、出雲の去るに当り勝正再び命を奉じて貞直を説く、定直始めて諾す。その一族に準ずるを以て奥平氏を称す。 土器0307。 天正元年(元亀四年)武田信玄野田城攻略の帰途信濃に於て没するや、この歳八月、貞能、信昌父子は徳川氏に赴かんとするに反し、貞勝独り武田方に踏み止まり、後甲斐の巨摩郡中村に住し、勝頼(信玄の子)没後三河へ帰り額田郡滝山城址に潜居す、或は伊勢の麻田に住せしという。第百七代後陽成天泉の文禄四年十月九日宮崎村中久保に於て卒去す、享年八十四、法名郁甫道文大禅定門、後に慶長十二年九月廟所を川合村北坂に移したり。室水野下野守信政の女、天正十一年十二月十六日卒去。法名 空屋妙心大禅尼、墓所不明。  貞勝四男五女あり、嫡は貞能、次男源五左衛門常勝と称し設楽郡小田に住す。永禄八年武田氏に属し、一旦三河へ帰住、天正元年貞勝に従うて再び甲斐国へ入り、後また三河国へ来る。家康勝頼に従属せしを怒り自刃せしむ。老臣兵藤新左衛門介錯す。四男求馬介貞国、家康の命により尾張徳川義直に付属す。長女松平新左衛門康定へ、次女菅沼刑部少輔定直へ、三女三河柏原城主鵜殿藤助長忠へ、四女老臣山崎半兵衛勝宗へ、五女族臣奥平但馬正俊へ嫁す。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で  注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。 【掲載記事から】   ◇「四代貞勝と石橋館」(続 つくで百話)(2019/12/17)