集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

発芽。 3-1.14 「奥平貞能(5)」 (作手村誌)

発芽0328。 天気のよい日でした。  例年より暖かい日が続き、花壇を耕し、今月中旬に「はるかのひまわり奇跡のひまわり)」(昨年採ったもの)を蒔きました。それが発芽しました。  昨年は4月22日に種を蒔きましたので、今年は1か月ほど早い作業でした。  この「はるかのひまわり奇跡のひまわり)」は、阪神淡路大震災の地から東北へ届けられ、その東北・「奇跡の集落」から当地に届き、代を重ねてきたものです。    ◇「奇跡の集落」と「奇跡のひまわり」(2017/06/10 集団「Emication」)  今年も大きく育って、夏に綺麗な花が咲くように世話をしていきます。  『作手村』(1960・昭和35年発行)は、「第一編 郷土と自然」から「第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。  昨年の大河ドラマ鎌倉時代、そして今年は徳川家康を描いています。  『作手村』(1960・昭和35年発行)から「諸豪族勃興時代」の奥平氏についの紹介です。 ********     第二編 村の沿革と歴史     人物 奥平氏   奥 平 貞 能 (つづき)  小笠原、草間の二人、先を急ぎて辞せんとするや強いて引止め、幸いに湯加減よければ共に一浴とらんと自ら浴室に導き入れ、余が長湯に構いなきよう挨拶に及ばれたれば、二人は貞能に先んじて室に帰りたるに、既に杯盤の用意整いおりて慇懃なる世子信昌の相伴に遇い、日の募るるをも知らず夜に入り厚く懇情を謝して辞せり。古宮城の使再び参入し、既に夜に及びたれば質子は明旦を期して送致せられたしと言う。城内決行の時期目睫に迫れるに諸人の出入多くして混雑を極むる際、突如浜松(徳川家康)の使者来着し、早々立退かれたく援軍将に到らんとのことなるを以て、貞能直ちに家族を先発せしめ、入浴中の弟常勝(貞勝の次男)に今夜父貞勝を奉じて一同退去するの手筈を語りたるが依然として決せざれば、後事を世子信昌に託し手勢を提げて城(亀山城)を立退き、十町が程の所に至り世子信昌の来るを待てり。暫くして残留せる家臣全部を引連れ馳せ参じたる世子は常勝と懇談を重ねたるも中々承諾の気色見ざるより後刻祖父(貞勝)に従うて来会すべきを告げおきたりと。  この日貞勝は山野に狩猟し帰途須山の善福寺に休憩中、始めて一同の立退きを聞き、此の如き重大事を一回の相談もなく決行したるを痛く憤慨し、直ちに五郎左衛門常勝、助次郎定包(貞昌の弟)及び武田の兵五十余人を率いて追しようす。世子(信昌)祖父貞勝追手の内に在るを知り、士卒に対して妄りに応戦すべからずと戒む、続きて甘利晴吉の郎党四百余人亦追い来る。是に於いて長棹より鉄砲をとり出し、石筒ヶ根坂に邀へ、藤兵衛貞治(貞勝の三男)、土佐定雄(和田出雲貞盛の次男)、兵藤勝末(五老の一人)、夏目治員(五老の一人)、黒屋勝直(五老の一人)以下士卒二百余人粉骨力戦す。定次、勝直首級を挙ぐ。作手散退に際し、貞能但馬勝正(七族の一人)に命じ雑兵百余人(四〜五十名か)を以て甘利勝吉の本居古宮城後の民家に潜伏せしめ、時刻を計りて発砲すべしと、勝正、石筒ケ根坂の戦なるを按じ、本城に向つて乱射を始め附近の村里に火を放つ。追撃中の甲軍(武田勢)顧みて古宮の方面に銃声を聞き、又烟焰の天に冲するを望み変事の突発したるを慮り遽に兵を纒めて退ぎ去る。勝正此の間に乗じ間道を過ぎ、本軍に殿りして額田郡宮崎村滝山の城砦に入る。而して傍近を火して敵勢の寄せ来るを待つ。  天正元年八月二十一日、武田勢五千人潮の如く滝山城に攻め寄せ来る。城険要にありて容易く攀する能わず、城兵これを瞰下して木石を顛落し鉄砲を乱射し、而して敵の動揺するに乗じ、与兵衛定次(七族の一人)、周防勝次(七族の一人)、生田勝重(五老の一人)、夏目治定(五老の一人)以下鋒を連ねて一斉に馳け下り従横無尽に突喊捕撃す。寄手算を乱し兵具を捨て隘路を右往左往しつつ走る。逃ぐるを追つて田原坂に到り激戦すること三合、源五衛門常勝傷を被りて退き、助次郎定包又退かんとす。奥平角兵衛これを見つけ、案内者なれば殿りをなすべきに逃れんとするは卑怯なりと呼ばわれば定包引返して角兵衛に打ち掛かる。但馬勝正の郎党酒井利兵衛及び奥平彦次郎横あいより槍を揮うて出ず。定包元来大力無雙の者にして兼て剣に達す、直ちに大刀をふりかざして切り払い、勝負何れとも見えざりしかば、奥牛市左衛門小丘に駈け上り、矢一筋参らせんと弱腰を射貫し、定包忽ち顛倒す、酒井利兵衛馳せ寄りて首をきる寄手悉く破れて四散するや亦遠く追わず兵を収めて滝山へ帰る。是を「田原坂の合戦」と言う。武田方の死傷する者五百余人。貞能、奥平市左衛門の功を賞して、定包の故邑佐脇を賜い、奥平角兵衛の勇を壮として覚兵衛と改めしむ。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で 【メモ;職員の異動検索】  中日新聞東京新聞に「教職員・公務員の異動」が掲載されるのに合わせ、ネット検索(先生サーチ・公務員サーチ)ができます。  これまでに発表されている県・市の職員・教職員の異動が調べられます。
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