朝から
強い雨が降り、日中の気温は上がらず、寒い一日でした。
当地は雨でしたが、関東、東北では雪が降り、東京には“
大雪警報”が発令され注意を呼びかけていました。
普段
雪の降らない地域で混乱がありそうですが、事故や災害のないことを祈ります。
最近の暖かい天候との気温差、今日の低温…、この変化に体がついていかない感じです。
みなさん、体調を崩さないよう、暖かくしてお過ごしください。
『
作手村誌』(1960・
昭和35年発行)は、「
第一編 郷土と自然」から「
第二編 村の沿革と歴史」へと続きます。
昨年の
大河ドラマが
鎌倉時代、そして今年は
徳川家康を描いています。
その時代そして人物について見ていきます。
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第二編 村の沿革と歴史
第三章 中世
諸豪族勃興時代
(つづき)
この時に当り設楽郡に設楽重清(左馬頭) 助重(五郎左衛門尉) 資善(兵庫助) 信実(右兵衛門) 資清(越中守) 重長(越中守) 長兼(四郎) 貞光(左馬頭) 貞勝(肥前守)) 資長(雅楽介) 資広(兵庫頭) 貞広(四郎左衛門) 貞資(兵庫頭) 貞好(越中守) 貞明(兵庫頭) 等代々在城し、作手郷に奥平貞俊(八郎左衛門) 貞久(六郎左衛門) 父子居城し各その附近を領した。その他菅沼地方に菅沼俊治(信濃守) 土岐資長(伊賀守後菅沼) 菅沼貞行等次々北部を領し彦部近江守一時(第百二代後花園天皇の康正年中に見ゆ) 黒瀬郷を、一色氏長篠地方を食みし様である。その後(第百四代)後柏原天皇の永正以来の戦国時代において各々城塁を構えてその附近の地を領したる者は野田城(千郷村大宇豊島)に菅沼定則(新八郎) 定村(新八郎) 定盈(新八郎後織部正) 代々、亀山城(作手村大宇清岳)に奥平貞昌(六郎左衛門) 貞勝(監物) 貞能(美作守) 信昌(九八郎) 代々(貞昌は貞久の子である)。長篠城に菅沼元成(新九郎) 俊則(下野守) 元貞(左馬亮) 貞景(左衛門尉) 正貞(新九郎) 代々。來迎松城(東郷村大字富永)に設楽貞長(左馬助) 貞重(雅楽助) 貞通(越中守) 。海老村に佐野某父子等にして何れも始め今川氏に属し、後武田晴信及び松平元康軍勢を本部に出すに及び或は武田氏に属し或は松平氏に款を送る等従属一つならざりしが(佐野某は武田氏に亡された)天正二年(甲戌) に至って悉く松平氏に属した。
天正三年五月長篠の戦あり、翌天正四年奥平九郎信昌新城城主となり菅沼新八郎定盈と相並んで本郡の大部を管せる以来天下の大勢漸く群雄割拠の域を脱し豊臣秀吉略天下統一の実を挙ぐるに至りしを以て、領主の任補及び領域の区画等やや井然たるものがあるに至った。天正四年奥平信昌の一子忠明分家亀山城に来り各所の整頓を計った。現今その跡として所々に見るもの残存している(写真参照)。
天正十八年(庚辰) 徳川家康、豊臣秀吉の命により関東に封ぜられると共に、奥平信昌、菅沼定盈、設楽定通等何れも関東に処替し、池田輝政(三左衛門) (十五万石)吉田城(豊橋市)に就き挙げて本郡を併管し家老片桐半右衛門正義(新城に居り七千石後石田城にうつる)始め家臣数名をして郡内各所にあらしめた。(第百七代)後陽成天皇の慶長三年豊臣秀吉死し天下の政権徳川家康に帰するに及び、慶長五年池田輝政家康の命により播摩国姫賂に移されその封土みな徳川幕府領となった。
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注)
これまでの記事は〈タグ「作手村誌」〉で
注2)本誌の本文内で、小文字や2行表記等されているものを、( )で示している。
【参考;
気象情報】