「七族五老」(続 つくで百話)
天気の良い一日でした。
今日は,名古屋で終日の研修でした。
日曜日で混雑を予想して出かけましたが,道路,電車,街…は思っていたより空いていました。「明日から仕事…。」という方が外出を控えていたのでしょうか。
新しい出会い,新しい学びがあり,楽しい一日でした。
ただ,久しぶりの“時間”は疲れました。明日は…。
『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。
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作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)
七族五老
奥平家家臣団には七族五老という制度があります。もとこれは上野国時代の遺法でしたが,三河国移住後もこれを用いました。一族中より七人を充て,専ら軍事を輔翼統率するのを七族といい,地方豪族出身にして門地武勲両つながら高くして帰属した者,もしくは功績著しき器量者から五人に限り,軍務に参画し国政に参与させるのを五老といいました。
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七 族
和田家
初代貞俊の二男和田の領主出雲貞盛。三代出雲貞行のとき天正元年武田に属し家を除かれました。
和田城は和田宇中島にある居館城で,南方雁峯山脈の麓にある北向の台地上にあります。和田川からの比高一〇メートル内外,北方に緩く傾斜しています。南方山麓に弧状の空濠を廻らし,その内側高所に檜址があり,見代城が望まれます。その下方に東西三六メートル南北六三メートルの削平地があり,城主の居館があり,現在農家のある辺は家臣の住居だったでしょう。
(系譜・略)
中金家
初代貞俊の弟貞直が額田郡中金村を領しました。八代守雄刃傷事件を起こし断絶。
(系譜・略)
夏山家
二代貞久の三男久正額田郡夏山郷平張を領し,出陣の際は殿軍を家格とす。
(系譜・略)
萩家
貞久の四男生馬允宝飯郡萩村の領主。七代主馬允の時刃傷事件に関り後に討たれて家断絶。
(系譜・略)
田代家
貞久の五男信丘宝飯郡佐脇の領主。
(系譜・略)
稲毛家
和田貞盛の二男土佐定雄石橋弾正誅伐の功により七族に列せられ,設楽郡稲木村を賜わる。三代定雄のとき断絶。
(系譜・略)
日近家
三代貞昌の二男貞直額田郡名内日近の領主。
(系譜・略)
雨山家
阿知波氏は尾州知多郡阿知郷より来り,三州額田郡雨山に来り住し,定直の時奥平氏に仕えた。家格三代より右先陣。
(系譜・略)
貞久の三,四,五男何れも七族中に列しているのに,二男久勝の加っていないのは不思議です。或いは列中にあったが二代弾正誅殺により抹殺されて伝わらなかったものか,或は惣知行高の四分の一を受ける大身のため,別格として待遇族臣を越え,始めから七族の中に入って居なかったのかも知れません。
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五老
山崎家
作手郷川手の領主で,貞俊の作手来住につき斡旋したので,重用され老臣の家格を得た。
(系譜・略)
生田家
熊野の社人額田郡生田村に住み後,宝飯郡佐脇に移る。主計の時,貞久に仕え戦功により五老に列した。家格 左先手。
(系譜・略)
兵藤家
設楽郡作手郷北畑の領主,二代太郎八のとき貞久に仕え,功により五老に列す。五代玄蕃のとき刃傷事件起り,これに対する藩侯の処置を難じて奥平家を去り断絶。
(系譜・略)
黒谷家
設楽郡黒谷郷の領主,重広のとき貞久の軍事顧問となり,其子重氏貞勝に仕えて五老に列す。五代正輝先君二七日法会の席上刃傷事件にあい傷をうけ自刃。某氏源八追放家名断絶。浄瑠坂仇討の騒動を起す。
(系譜・略)
夏目家
夏目治員信濃より来り設楽郡宮脇に住し,貞勝に仕え戦功により五老に列す。
(系譜・略)
以上作手時代に於ける七族五老のうち,幕末まで残ったのは,七族では夏山,雨山の二家,五老では生田,夏目の二家のみで,他はことごとく退転断絶してしまい,如何に家名の存続が至難であったかを物語っています。
江戸時代となり干戈全く絶えると,軍事以外全く無職の七族は格好がつかなくなり,五老同様庶政を総覧することになります。そうなると族臣老臣の区別は自然に解消し,大身衆という家格が生れますが,員数は十二人と定まっていました。
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