集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

勤労感謝の日。新嘗祭。 柳田文学とつくで (作手見聞録)

祭礼1123。 朝から雨が降り続き、気温の上がらない寒い日でした。  今日は、国民の祝日の一つ「勤労感謝の日」です。「勤労をたっとび、生産を祝い、国民互いに感謝しあう」ことを趣旨とした祝日です。自然の恵み、日々の営みに感謝する日でした。  そして、11月23日は、自然からの恵みに感謝する「新嘗祭」の日でもあります。午後、地区の白鳥神社で、秋の収穫に感謝して神嘗祭が執り行われました。新嘗祭は、天皇が五穀の新穀を天神地祇に勧め、また、自らもこれを食して、その年の収穫を感謝する祭儀に由来します。  地域の方々と“今年の収穫,大地からの恵み”に感謝し、お詣りをしました。ありがとうございました。  旧作手村が、地域情報をまとめたA5サイズの冊子『作手見聞録』を作成し、配付していました。数回の更新があり、表紙の異なるものがありました。  発行年が明確ではありませんが、手元にある冊子から順に紹介します。 ********     作手見聞録     柳田文学とつくで  民浴学で有名な柳田国男は、私達の作手村にも足を踏み入れていました。  地域の文化について、研ぎ澄まされた感性を持つ柳田国男は、いったい作手村に対してどんな印象をいだいたのであリましょうか、興味のわくところです。  この旅行記「秋風帖」の存在が、遠い世界の柳田国男を身近に引き寄せてくれます。   杉平と松平(抜粋)  雁峯山の平板な横面を、掻きつくようにして登り越えると、あちらの麓にはスギダヒラという一里がある。作手の36集落中では、これでも一番海に近いのだ。ただし、豊川の下流を汽車でばかり渡る者には、幾度通って見てもあんな屏風の如き山嶺の北陰に、更に別個の小大地があろうとは考えられぬ。作手の谷の水は三筋ともに、巴山の周囲を廻流して、いずれも意外の方向から平野に下っているために杉平のあたりがいたって山奥の感じをおぼえるのである。  御前石峠の頂上まで出て見れば、伊勢湾も浜名湖も一目に眺められ、豊橋付近の繁華街は手に取るようであるが、いくらひろびろとしていてもよそはよそだ。杉平の人はやはり杉平の、平和な谷合に戻って寝た。それが少なくとも五百年来のことである。 杉平1123。 杉平から小さな一阪を越えると、南赤羽恨という村に出る。家敷が一四戸、これに隣する北赤羽根は五六戸である。高寒の二字を以って形容すべき僻地であって、僅かな日当たりの傾斜地に畠を耕して住んでいる、元亀大正のころに、奥平殿の家来に尾藤源内、黒屋久助二人の者、各之を知行すと伝え、今も、村にはその苗字がある。二人は勇士であって、宇都本阪の勝ち戦の時に討死をした。こんな山畑を耕していても、尚御主の為に命をささげる義理のあったことは、悲しい話だと思った。  奥平氏は忘れるほど古い時から、作手一郷の地頭であった。東隣の菅沼氏と共に、武田と徳川との間にはさまって迷惑をした。結局意を決して長篠篭城の武功を立てる前には、おしくも忠義の家来を討たせたのみか、武田へ人質に取られた妻と幼い弟とは、門谷の金剛堂の前で磔に遭っている。  市場の亀山にも川尻というところにも、屋敷跡がまだ残っているが、主は出世して大名になり、もう故郷へは帰って来なかった。縁組によって次第に血も改まり、今の奥平伯などは軍配團扇の絞の羽織を着て居ながら品川の海では漁師以上の網打の腕前に誇り、作手出身の人のようで無くなった。  自分は作手を後にしてから、西に向って郡界川の流に沿い、額田の下山(しもやま)を通って、松平村の高月院を訪ねた。徳川家康から三四代前の先祖が寄進をしたという小さな田は、寺の横手に今でも耕され、其証文もちゃんと寺に残っている。英雄の故郷としては爰(ここ)も決してはでなものでない。それから自分には頼りに作手の奥の杉平が思い出された。  松平と杉平と、たった一字の半分だけの相異だが、土地が天下に名を知られる機会の差に至っては莫大であった。 赤羽根1123。 運やら天然やら私にも分らぬが、何にせよ杉平だから、土の色も黒く北向きで水分が豊富で、両側の山が急であった。これに反して松平の方は、花崗岩の露頭の、白石爛たる小松山であった。山川の流のちょうど折れ曲がりの角にあたり、小さな盆地の村であることは同じでも、屋敷の後の岡に登ると、松の間から西三河の平原が見えた。作手市場の奥平八左衛門の住居などは、要害の点では羨まれたが、四万は湿地が多く眺望も何も無かったに反して、松平の山には藤つつじが多く、又月の名所でもあった。  この松平の代々の太郎左衛門の一人に、連歌の好きな老人があった。その頃大濱の称名寺の念仏団の中に、何阿弥とかいう聖坊主が、折々招かれて来て相手をした。時衆などには珍しい人品で、諸国を行脚していた故に話が面白かった。生まれは遠い上州だといったが誰も身元を調べたのでは無い。普通で無かったのは息子を一人連れており、それが又発明な器量の好い青年で、素朴な松平人に愛せられた。あるいは何等かの恋物語があったのかも知れぬが、そんな事を語リ伝える時世では無かった。とにかくそういう和合が元になって、所望せられて入聟となりその間に生れたのが、まぎれもない徳川公爵の先祖である。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「見聞録」〉で