情報交換。 6(5-19) 地域の発展につくした人 2 (わたしたちの村つくで 改訂版)
天気のよい日になりました。
午前中、新城観光協会のスタッフと打合せをしました。「○○との関係やすみ分けは…」「これまで○○は…」…、以前にお尋ねしたことも含め、現状や成果、課題などについて教えていただきました。
話をお聞きして、明らかになったのは…。
貴重な情報、時間をありがとうございました。
打合せを終えて外に出ると、市役所に向かう教育長に出会い、お声をかけていただきました。その後、教育長室で、最近の状況や課題を伺ったり、学校や地域のことについてお話をしました。
「○○は…」「これから○○…」…
新しい話題、今後の課題、さまざまな話題でお話ができました。ありがとうございました。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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5 明治から平成へ
地域の発展につくした人 2
挙母街道開発の父,佐宗九一
明治の中ごろ,現在の新城市から作手村に通じる挙母街道(現在の国道301号)は,道はばもせまく,けわしい坂が多くて,荷車さえ通れない道でした。荷物の運ぱんは,牛馬の背にたよるしかありませんでした。
明治28年,九一25才の時,地方の発展は道路の開発から進めなければならないと考え,自ら先頭に立って,となり合う町村によびかけ,「挙母街道改修期成同盟」を結成しました。
九一らの県や郡への熱心なはたらきかけが実を結び,大正2年,新城地内から挙母街道の改修工事が始められました。作手地内の改修工事は,大正7年,まず保永地区から始められました。その後,保永〜白鳥間,清岳地区,
高里地区と工事が進められ,大正15年,高里〜田原間の開通により,ついに村民が待ち望んだ交通の大動脈(15.5km)が完成しました。
県会議員,郡会議長,村長などを歴任した九一は,挙母街道だけでなく,岡崎−田口線(岡埼から田原,守義をへて設楽町田口へ続く道路),作手−岡崎線(清岳から額田郡宮崎をへて岡崎へ続く道路),清岳−新城線(清岳から相寺,田代をへて新城市へ続く道路),保永−海老線(戸津呂から巴川ぞいに下り,鳳来町塩瀬に続く道路)など,村内の主要道路の改修にも力を注ぎ,「道路翁」とまで言われました。
佐宗九一翁の人がらがよく分かる,次のような話があります。
村の人たちは,「九一様に会うとはずかしい。」といつも言っていました。それは,「いつ行き会っても,遠くからぼうしを取って頭を下げ,ていねいにあいさつされる。いつもこちらが後になるのではずかしい。」からだそうです。
また,人にものをたのまれると,必ず「ハイ,ヨウゴザンス」と軽くひと言あり,ひと言があった以上必ず実行されたといいます。しかし,さすがの九一翁も,「ハイ,ヨウゴザンス」と言えないことがありました。それは,ある人から「社名を筆で書いてほしい」とたのまれた時でした。翁は,しばらく待ってもらい,習字をもう練習したすえ,りっぱに書き上げておくったということです。
だれにでもおだやかな,こだわりのないたい度でせっした九一翁。作手村の道路開発に生がいをささげた翁に,昭和43年「名誉村民」のしょう号がおくられました。
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注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。