6(5-18) 地域の発展につくした人 1 (わたしたちの村つくで 改訂版)
傘を持って出かけましたが、雨は降らずに曇りの一日でした。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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5 明治から平成へ
地域の発展につくした人 1
菅守尋常高等小学校設立に力をつくした原田紋右衛門
明治30年ごろ,作手では,子どもに尋常高等小学校の教育を受けさせるためには,海老か新城の尋常高等小学校まで通わせなければなりませんでした。
守義村伍領の原田紋右衛門は,原田三十郎らとともに高等小学校設立を村人にうったえるため,明治35年6月,楽法寺において第1回の協議会を開きました。
協議会では,はげしい意見の対立があり,なかなか結論が出ませんでした。紋右衛門は,これからの時代を生きるためには,教育が大切であることを熱心にうったえました。そして,明治36年11月,ついに菅沼尋常小学校と守義尋常小学校をいっしょにし,イモリ山に菅守尋常高等小学校を設立することが決定されました。
ただちにイモリ山が開こんされ,校舎建設工事が始まりました。しかし,明治37年2月,日露戦争が始まり,やむをえず工事を中だんしました。
明治38年9月,日露戦争が終わり工事はさい開されました。そして,明治39年12月,菅守尋常高等小学校開校式典が開かれました。式典で,紋右衛門は新築委員総代として,次のようにのべています。
「優れた者が勝ち,劣っている者が敗れることは,社会においては常のありさまです。優劣は,知識と財力が多いか少ないかによることは言うまでもないことです。そして,知識を増やすことは,教育が細かいところまでゆきとどいているかどうかにかかっています。この村は山あいの小さな村であり,土地は広大であっても住む人は少なく,まるで北海道の千鳥のような所です。二つの尋常小学校はありましたが,不完全な義務教育を行うにすぎないものでした。(−中略−)
戸数はわずかに150戸しかなく,生活や文化の程度もたいへん低い所ではありますが,費用のすべてを区民の寄付によってまかない,補助をまったく受けず,税金をいただかなかったことは,本校の一つの特色というべきでしょう。」(創設の辞の一部を分かりやすくしました)
この紋右衛門のことばには,教育によって人を育て,村を発展させたいという強い願いと,高等小学校の設立を区民の手でなしとげたほこりが感じられます。
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注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。