屈辱の日。 6(5-5) さかんになる養蚕 (わたしたちの村つくで 改訂版)
朝は小雨が降っていましたが,徐々に天候が回復し,晴れて暖かい日になりました。
先日,「サンフランシスコ講和条約の発効した日は,屈辱の日だ。」という話を,初めて聞きました。
戦争,戦後…に関心をもち話題にしてきましたが,視点が欠けていました。
今日4月28日は,条約の発効から70年を迎えました。この講和条約により,日本と多くの連合国との間の「戦争状態」が終結し,主権回復や国際社会復帰を果たしました。
ところが,“日本は独立”しましたが,沖縄と奄美,小笠原は日本と切り離され米国統治が始まった日となりました。
そのため,沖縄では,この日を「屈辱の日」と呼んできたそうです。
今,日本は“平和”です。
そこに,“今にいたる歴史”そして“人々の暮らし”のあることを忘れないでいたいと思います。そのことを考えさせられた話でした。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
********
5 明治から平成へ
大正から昭和へ
さかんになる養蚕
明治の中ごろから,生糸はさかんに外国ヘ輸出されるようになりました。その利益が大きかったため,日本の各地で蚕を飼う農家がふえてきました。
作手の農業は米作りが中心でしたが,お金を手に入れるために養蚕をする農家がしだいにふえていきました。養蚕がさかんになるにつれて,畑にクワが植えられるようになりました。作手村では,1921年(大正10年)ごろ,クワ畑が一番広く作られていました。そのころは,まゆから生糸をつくる製糸工場が新城や豊橋にたくさんでき,作手村からも働きに行く人がありました。
養蚕農家の生活 小学校のころは,学校から帰ると毎日蚕を飼う手伝いをしたもんだ。昭和10年から17年ぐらいは,8割ぐらいの農家が蚕を飼っていたよ。当時は,ほかにお金がもうかるものがなかったので,「お蚕様」とよんでいたよ。 1階の部屋は,ねどこ以外は全部お蚕様にとられてしまった。いそがしい時期は,おやじたちはねるひまもないくらいで,自分はクワつみやクワ運びのお手伝いをやった。勉強どころではなかったなあ。そのころは,まゆ1貫(3.75kg)で米1俵ぐらいの値段だった。多い人は1年に50貫もとっていたから,とても大事だったんだ。でも,蚕の茶色いふんが部屋中に落ちてくさくてね,あれはいやだったなあ。******** 注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で 注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。 注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。