種まき。 6(5-2) 学校のはじまり (わたしたちの村つくで 改訂版)
天気のよい一日でした。
気温が上がってきているので,午後に,東北からの縁を結ぶ「はるかのひまわり(奇跡のひまわり)」の種を蒔きました。
これまで,花壇に種を蒔いてきましたが,今年はポットを用意しました。
昨年,種を取ったとき,種が小さく実の入り(?)の悪いものが多く,直接花壇に蒔いては不味いのではないかと思って,変えてみました。
発芽や夏の花に違いがあるでしょうか。
種蒔きの準備をしながら,花壇を見ると,2つのひまわりの芽が顔を出していました。
花壇に落ちていた種から発芽したようです。自然の力を感じました。
今年も,大きな花を咲かせてくれることとでしょう。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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5 明治から平成へ
明治の作手
学校のはじまり
1872年(明治5年)に,明治政府は,すべての子どもが教育を受けられるように,全国に学校をつくりました(学制)。このとき作手にできた学校は4校で,それまでの寺子屋を学校にしたものでした。しかし,授業料をおさめなければならず,親の負担は大変なものでした。
1886年(明治19年)に,尋常小学校の4年が義務教育となりました。
尋常小学校では,修身,読書,作文,習字,算術,体操などを勉強し,授業時間数は1日4時間かそれ以上でした。
作手に多かった簡易科では,読書,作文,習字,算術くらいで,授業も1日2時間か3時間でした。このころの作手村では,学校に行く子があまり多くありませんでした。しかし,日清戦争後から少しずつふえ始めました。 その後,学校の制度はたびたび変わりました。1900年(明治33年)には,授業料をおさめなくてもよくなり,1907年(明治40年)には,義務教育が6年になりました。このころ作手には,四つの尋常小学校と一つの尋常高等小学校がありました。 明治の中ごろまでは,村には高等小学校がありませんでした。そこで,村を支える重要な産業の農業や林業を学ぶ学校をつくることになりました。1898年(明治31年),高里の正眼寺をかりて作手農業補習学校ができ,1904年(明治37年)には,中等学校としての作手農林学校になりました。
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注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。