6(4-5) 入会山と山争い (わたしたちの村つくで 改訂版)
天気のよい日になり。気温が上がり暑い一日でした。(写真は,今日の空・雲)
今朝(8時16分頃),茨城県で震度5弱を観測する地震が起きました。地震による大きな被害や津波の発生はなかったようですが,関東北部から東北では先月に続く“大きな揺れ”でした。
「改めて備えの確認を…」と,いつもの言葉になってしまいますが,自分事として行動と備蓄の点検をしたいと思います。
郷土読本『わたしたちの村 つくで』(2004新改訂版発行)の「6 作手村のうつりかわり」からです。
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4 江戸時代の作手
農民のくらし
入会山と山争い
江戸時代の林野(山林や草かり場)には,幕府が所有する天領をはじめ,大名や旗本の林野,神社や寺の寺社領,農民が共同で所有した入会山がありました。
昔は,スギやヒノキが植えられた山はほとんどなく,雑木や草,笹などがはえていました。農民は,この入会山から,馬や牛のえさや田畑の肥料にするための草を刈りました。また,たきぎや家を建てるために木を切りました。 しかし,年貢の取り立てがきびしくなると,肥料や馬のえさにする草が多く必要となり,争いがおきるようになりました。このため,草刈りをする日や時間を決め,山へ入る人数や使う道具などを決めるようになりました。
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注)これまでの記事は〈タグ「新わたしたちの村」〉で
注2)郷土副読本は,小学3,4年生に向けて「ふりがな・るび」がたくさん付いていますが,掲載にあたっては省いています。
注3)多くの写真や図版が載っていますが,すべてを紹介(掲載)していません。ご了承ください。
山をめぐる争い 江戸時代のはじめごろまでは,入会山の境は雁峰の峰となっていました。ところが里方は田が広く,そのうえ,年貢の取り立てがきびしくなるにつれ,肥料にする草がたくさん必要になり,境をこえて作手や布里・一色の村に入ってきました。このため作手や布里の人たちは,自分たちの山をあらされないように,力を合わせて里方の農民を追い払いました。その後,三河の代官鈴木八右衛門と鳳来寺の月蔵坊というえらいお坊さんが間に入って事件はおさまりま した。作手の山争いの一番古い記録は,1637年(寛永14年)の雁峰山の争いで,里方31か村(今の新城市西部と北部)と,山方6か村(布里・一色・塩瀬・小林・杉平・田代)が争ったときのものです。 このほかにも,1642年(寛永19年)の羽布村との境をめぐる争いをはじめ,多くの山争いが明治時代まで続きました。そのなかには,死者が出るといういたましい山争いもありました。