集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

涅槃会。ホラ米爺さん(1) (つくで百話 最終篇)

花0215。 一昨日(13日)の深夜,当地も長く揺れました。最大震度6強福島県地震です。  知人のようすが気になりましたが,
2月13日 23:38  TwitterFacebookもLINEもサービスダウンしないの、ほんとうにすごい。
との投稿も早くにあり,それぞれの発信を待ちました。  被災の状況に合わせ,SNSで適時に安否や状況を発信される方が増えたように思います。  そして,自治体の情報も得られます。古い○○では,住民の“安心”は,残念ですが得られないようです。  人的な被害は小さかったようですが,「10年前より被害が大きい」という地域もあります。早い復旧を願い,災害への備えを再点検したいと思います。  今日2月15日は,お釈迦様が亡くなられた(入滅)日で「涅槃会」だそうです。  紀元前383年頃,お釈迦様は80歳で亡くなられたとされおり,沙羅双樹の間に右脇を下にして頭を北にして西を向いて横たわって弟子達に見守られながら静かに息を引き取ったとされています。その姿が「涅槃図」に描かれています。  調べると,お釈迦様の生涯には,「八相成道」と呼ばれる8つの出来事「降兜率・託胎・降誕・出家・降魔・成道・初転法輪・涅槃」があったそうです。  私たちの生涯にも,こうした出来事があるのでしょうか。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     ホラ米爺さん  ホラ米さは,作手村の小林部落に住んでいた。本名は鈴木米造といったが,世間ではホラ米で通っていた。 「俺のことを世間の奴らがホラ米と言っとるのは,俺が小林の洞底に住んどるからだと思っとったら,法螺吹きだでホラ米と言っとるんだと聞いてあきれてしまった。俺りァちっとも駄法螺なんか吹いちゃいねえだ。ほんとにやっとることをしゃべっとるだけだ」と,言っていた。   ホラ米さの家  ホラ米さの家は,巴川沿いの往還に面していた。昔は小さい家だったそうだが,大正の初め頃に大きな家屋を新築した。二階建ての住居には一〇畳の間が一二。一〇畳の台所,一〇坪くらいの土間をへだてて向う座敷は八畳が二つ。勝手場兼食堂が四坪あまり,南・西・北には一間幅の橡側がついていた。 ホラ米爺さん0215。 本宅から少し離れて,六坪の土蔵と一五坪の物置。物置の地下は堆肥場と成っていた。  正面に門長屋があって,ここにも四畳半の座敷が二つあった。  また裏側には,小林川の流れを利用して自家発電所がつくられ,精米所もできていた。  用水は小林川の水を引き込んでおり,南側の空地には庭園と池がつくられ,池の中には三〇センチから六〇センチもある緋鯉,真鯉が群れ泳いでいた。 「作手ぢゅうに,おれんとこぐらい良い屋敷はないぞ。車は玄関横付けだし,田も畑も軒場から続いとる。山はすぐ川向うから広がっとるし,後山だって良い山といやア大抵おれんとこのもんだ。百姓やるにゃアもってこいだ」と。なる程,ホラ米さの言うことに偽りはなかった。  自家発電も作手の草わけで,家の中には三〇いくつの電灯が煌々と輝いていた。   労働の鬼  ホラ米さは中肉中背,ガッシリした体格の持主だった。日焼した黒光る顔,節くれだった大きな掌と人並はずれた大声は,ホラ米さのシンボルであった。 「俺の若い頃は貧乏だった。麦七分米三分くらいの飯や,稗や蕎麦を食っておった。それでも,体が丈夫だったで無茶苦茶に働いたもんだ。冬には,炭焼で金をためて山を買い木を植えた。なんしょう働くことが第一だ。そしてしまつするこった。」と,彼は時々述懐していた。ホラ米さは,勤労節約の権化ともいうぺき人物であった。 「今日は雨降り仕事に,半日草履つくりをした。十三足ばかりつくった。」などとも言った。ホラ米さの草履はぞんざいなものではあったが,大きいガッシリしたものだった。  植林は,一日五・六百本は植えた。普通の植え方では,百五十本くらいが一日の能率であったが,ホラ米さは彼独特の一鍬植えという方法でやった。まず,唐鍬をグット打ち込んで柄の先を下げると,すき間ができる。そこへ苗を挿しこんで踏みつけておくだけだから,至極簡単であった。それでもよくついた。こんな植え方は,現代林業で奨励されている「丁寧植え」とは正反対の方法であるが,ホラ米さは一鍬植えの一本槍で押し通した。今でも鈴木家の山林の中には,七・八十年生の杉の美林が,ホラ米さの一鍬植えの跡を残している所もある。  ホラ米さは,大きな住宅をフルに活用して養蚕も手広くやった。蚕の飼い方も,ホラ米式の粗放そのものであった。蚕棚は,六〇センチくらいの間隔をおいた二段づくりであった。桑畑から伐ってきた桑の枝を,ここに並べておくだけだった。病蚕がでて失敗することもあったが,こんなやり方でも結構増産することができた。  繭ができると,隣部落の川手の人たちもたのんで,総勢七・八人で繭を背負って新城の市へ出荷した。近所の家の前を通る時など,聞えよがしに大声で話し合った。 「餘分の金を持ってきても仕方がないから,〇百円は新城銀行に預けてくるかなァ」とも言った。キザともとれる彼の放言であったが,ホラ米の面目躍如たるものがあった。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で