鳥居強右衛門餘話(3) (つくで百話 最終篇)
青空の綺麗な日で,気温が上がり,当地でも日中10度を超える一日でした。
久しぶりに市役所へ立ち寄りました。
緊急事態宣言の下での行動の“注意事項や制限”,感染予防の“注意や消毒液”が目立つようにありました。
エレベーターや階段で移動し,用事のある部署へ,そして再び入り口へ…。
「そうか」,「えっ」,「あれっ」…
思うこといろいろ。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
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鳥居強右衛門餘話
(つづき)
武田軍に捕わる
再び雁峯山に登った勝商は,狼煙松のところで合図の焚火をしました。長篠城内では勝商が使命を達成したことを知って,ホット安堵の胸をなでおろしたことでありましょう。凡人の常識からすれば,何も危険を冒して城へ帰らなくても良いように思われるのですが,勝商の責任感からすれば,主公貞昌に直々復命しなくては,気がすまなかったものと思われます。城内に潜入の機会をねらっているうちに武田軍の手に捕えられ,勝頼の本陣に引きたてられました。
勝商の人物を高く評価した勝頼は,勝商に武田家へ仕官するように勧めましたが,勝商は二君に仕えるのは武士の本懐でないと拒否しました。しかし,勝商は取調ぺの進行するうちに心中決する所があり,城内に向って,徳川の援軍が得られなかったと報告する約束をしました。
城門の北側に引き出された勝商は,第一声は武田方に約した通り叫びましたが,監視兵の油断をみて「織田・徳川の両公,三万の大軍を率いて既に岡崎を出発された…」と,絶叫しました。
びっくりした武田軍の兵卒どもは,勝商を打ちなぐり,高手小手にしばりあげ,城の南西,篠場で磔にしました。磔柱にくくりつけられた勝商は,武田軍の兵が左右から突き出した長柄の槍でグサッとさされました。
この時,勝商は泰然として「うちえみし」ということです。場内では,勝商の苦痛を察して,強弓遠矢の名人として知られていた奥平三郎兵衛に命じて,勝商の首をねらって射たせました。三郎兵衛がこの時使った弓は三人張りの強弓で,十束三一伏の鏑矢で「目標たがわず強右衛門の首のあたりへパッシとばかり射当てたり」と,当時の古文書は記録しております。
処刑と墓碑
大分道草をくいましたが,これから勝商の墓について述べることにいたします。勝商が処刑されたのは五月十六日ですが,新暦では七月四日となりますので,夏の最中でした。五月二十一日が設楽原の決戦でしたから,屍体の収容は,その後に行われたものと思われます。その間に約一週間の時日が経過していますから,勝商の遺骸は腐らんして手もつけられないようになっていたものと思われます。そこで胴体は,付近の新昌寺の境内に葬り,首級(或は毛髪のみ)を甘泉寺の境内に埋葬したものと思われます。
勝商は,奥平家の家臣として約十五年作手におりました。その間,しばしば甘泉寺に遊び,住職とも親しくなり,その檀徒と成ったのではないでしようか。甘泉寺には,智海常道居士という勝商の位牌も安置されております。
(つづく)
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【情報;全国学校給食週間】
今日,子供達はどのような給食を食べたでしょうか。
昨日1月24日から1月30日まで全国学校給食週間です。今週の給食は,いつもと違った献立になっているかな。
これまでの記事から。
◇全国学校給食週間。……(2020/01/26 集団「Emication」)
◇学校給食週間。「五色・五味・五法・五感」。(2019/01/25 集団「Emication」)
◇「よく噛むことは『あい(愛)なのだ』」と(2018/01/27 集団「Emication」)
◇全国学校給食週間(1/24〜1/30)(2018/01/25 集団「Emication」)
給食に関わって,「給食牛乳紙パック「直飲み」論争」の話題。(2020/11/25 集団「Emication」)