集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

初○○の日。古文書によって(1) (つくで百話 最終篇)

佐野0102。 朝は晴れていましたが,曇りそして時々雪の舞う,寒い一日でした。  正月二日は,仕事の準備やお稽古を始めるのに縁起の良い日とされ,諸事の事始めの日です。  初商い,初荷,書初め,初釜など,いろいろと“初○○”がありますが,新型コロナ禍の今年は,行われたでしょうか。初○○も“分散”にしているかもしれません。  でも,不安や戸惑いの大きい今だからこそ,「初○○という“節”」を意識して持つことで,気持ちを整えることが重要な気がします。  古くは,若水で墨をすり,恵方(2021年は南南東)に向かって,「長生殿裏春秋富 不老門前日月遅」の漢詩書き初めに書きました。  その書き初めは,小正月左義長で燃やします。正月飾りや書き初めなどを燃やす煙に乗って年神様が天上に帰って行くとされています。  新型コロナ禍の“不安や戸惑い”も書初めとともに燃えて…。  みなさんの“初○○”は,何をしましたか。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     古文書によって   峰田好次  古い文書は次第に消え,古い時代の足音は遠のく。でも誰もが父祖へのかなしみを失うことはない。父祖の書は貴い。  今から三百年・四百年前と云えば,江戸幕府の頃となる。その頃,作手の人達の多くは農民で,農民は百姓と呼ばれた。  その百姓の中に村役人と呼ばれる庄屋(名主)・組頭・百姓代などがあって,いろいろな役目を務めたのである。 挿絵0102。 庄屋は村全体の長で,組頭を統括指導し,組頭は組内の事柄を処理した。事件の解決・意見の取次・書類調印・租貢・民費の算用・百姓代への指図など。  百姓代は,百姓の代表で百姓直接のきき役・世話役・組頭との間の連絡・指令の伝達に当った。村役人以外,非役の百姓は小前と呼ばれた。  また数村の庄屋のとりまとめをしていた大庄屋というのが,その上にあった。  起り勝ちな地所争い・盗み・逃散・火付け・殺人等の非行・異教信奉者の摘発等々の治安問題,税としての租貢,人夫出役のことは,すべて赤坂の奉行所で扱われた。この役所と惣百姓との間に立って,村役人がその務をしたのである。この作手村も,今日では字々をまとめた大きい村なのだが,この時代には,今の字々が一村一村であって,多くの大名や旗本に分割支配されたのである。   〔例〕  小林村領主 慶長八年−松平忠明亀山城主)元和元年〜延宝八年−天領(徳川直轄地)天和元年〜享保十年 土井周防守,松平和泉,板倉近江,松平丹後相次ぎ,同十一年天領 享和三年〜文久元年−安藤対馬 文久元年−天領 明治二年−板倉近江  租貢の割合については全国的に六公四氏とか五公五民,四公六民とか謂われて,年貢が六割であった村では,四割が百姓の取高であるというのが六公四氏である。作手のように地昧も悪く,寒冷の土地では,多くは下田・下畑で収量も少いので,四公六民であったようである。  百姓一人一人の耕地は検地され,毎年の検見で収量が決められ,総合して村高が算定され,それに割合を掛けて租貢が定められたのである。  しかし,村高はずっと以前,幕府がこの制度を布いた慶長年間に定められた様子がうかがえる。百姓は,それを生産目標に努力した。新田の追加,豊年凶年によって租貢には増滅があったが,元高は中々変更されなかった。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【おまけ】   ◇佐野妙 (@sttae)Twitter)