集団「Emication」別館

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正月の蘊蓄(1)。昔の作手の山林(2) (つくで百話 最終篇)

実1216。 今朝,覚悟して外を見ると“真っ白”でした。一面の雪景色でした。  今日も「最高の感染者数で…」と伝える状況ですが,昼食で寄ったモールの店舗は“長い列”が出来ていました。  蜜を避け,予防に努めているとはいえ,自分も含め「用事があるから…」と人出は多くなっているようです。この人出を止めるのは「○○の中止」ではないでしょうね。  みなさん,気を付けましょう。  “正月事始め”から続く「正月の蘊蓄」です。
◇お正月に用意するもの   門松,しめ飾り,鏡餅おせち料理,屠蘇… ◇門松   神様が家々に降りてこられるための依り代です。門前を清めて年神様を迎えます。   新年を祝って,家の門口等に立てられる松竹の飾りです。松飾り,門の松とも言われるそうです。   古くは,木の梢等に神は宿るとされ,門松はその依り代として,そこに年神様を迎えて祭りました。
 門松は,松とは限らず,榊,栗,楢,椿等の常緑樹であれば,何でもよかったのですが,今では松がほとんどです。竹を一緒に飾るようになったのは,鎌倉時代からだそうです。  門松を取り付けるのに,12月29日は「苦立て」,12月31日は「一夜飾り」といい,この日に門松を立てるのを嫌います。  今年,お宅では門松を立てますか。  『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。 ********     昔の作手の山林 (つづき)  作手高原の或る部分のヒノキには,木曽ヒノキと同様な優良材質のものがある。学者の調査によると,ヒノキもスギも五〇年以上になると主幹にネジレがでてくるが,その方向がヒノキとスギでは逆になる。ヒノキのネジレ具合が,いわゆる木曽材といわれるものに似たものが作手にある。  作手郷の山林には,各地に領主が支配していた「お林」(お留山,またはお立山ともいった)があったが,大部分は入会山(モヤイ山)であった。入会山は百姓の草刈山で,薪炭などはここでつくられた。立木は,マツ・スギ・ヒノキなどが,ポツリポツリたっているにすぎなかった。  応暦二年(1339)伊勢神宮御造営について,設楽山から御用材を伐出したという記録がある。設楽山というのは,設楽町神田の入にある一の又・椎代山であろうと推定されているが,この山なら,直ちに三輪川に狩落され,管流しで小川・乗本辺に集められ,ここで筏に組んで吉田港へ送り,それから三河湾を横ぎって伊勢の大湊港に運ばれたものであろう。何れにしても,奥三河の設楽山が神宮御用材を仰せつけられたということから,地続きの作手郷にも,スギ・ヒノキの美林が存在したことが想像される。  昔の林業といわれたものは,山へ入って木を伐り,出材して製材する仕業であったが,戦国時代になると,諸大名の城廓建築・武家屋敷や城下町の造成が急激に進み,木材の需要は止まる所を知らぬ有様となった。寛文〜享保の江戸時代になると,この傾向は一層烈しくなり,各地の有名林業地は立木を伐り尽して所謂・尽山現象を招くことになった。先覚者・熊沢蕃山などは,夙にこれを憂い「天下の山林十に八尽き候」と警告して,領主に植林を勧奨している。  この尽山現象は幕府も放置することができず,寛文二〇年(1643)八月二六日「郷村御觸」の一節で「御料在々所々山林に仕る可き所は木苗を植え置き山林をば以来其村の助けにも罷り成り候様に仕る可き事」と命じている。次いで承応元年(1653)正月四日の代官服務心得の中で,「自然の障りにもならざる荒地山野等これ有らば苗木を植え山林を仕立る可きの旨申し付けらるぺき事」と,植林を命じている。  作手村についての文書は見当らないが,鳳来町池場の金田家文書によると,今から二百五十年くらい前から役人の指令で,スギ・ヒノキ苗の挿植えをしている。その記録によると,スギの挿苗は半分くらい活着しているが,ヒノキは成績が悪かったようである。金田家では,自家山林から実生のスギ苗を菜集して畑付けして,六〇センチくらいに成長したのを山植えしている。この実生苗とりを「子生え拾い」または「子拾い」と言っていた。戦前,金田家のお台所山として県下に知られた美林は,かくして造成されたのであった (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で  注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で