昔の作手の山林(3) (つくで百話 最終篇)
昨夜から雪が降り続きました。朝,数センチの積雪でした。出勤の車が,ゆっくりと動いていました。
日中,晴れて道路などの雪は溶けましたが,気温は上がらず低いままで,田畑は白い景色のままでした。
明日は…。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
********
昔の作手の山林
(つづき)
作手郷でも,幕末から明治初年へかけて,各部落の先覚者たちが申合せて植林を始めた。その主なるものを挙げると,守義の原田紋右衛門・菅沼の原田三十郎・木和田の木和田利兵衛・木和田周平の四氏は大々的な植林を企てた。
田原の中川忠三郎家・中川太次郎家は,隣り同志でスギの美林を造成した。鴨ヶ谷の鈴木縫十氏の裏山のヒノキ林と,鴨ヶ谷沢のスギの美林は,大正中間まで見事な林相を誇示していた。
戸津呂の佐宗武平氏・井上和吉氏・和田の佐宗孫兵衛氏・見代の加藤藤吉氏等は,立地条件に恵まれてスギの美林を造成した。
赤羽根の石原弥四郎氏のトンゴウチのスギ林・小林の峯田文重氏・大和田の島幸市氏等の造成したスギ林は,今もその偉容を伝えている。
杉平の峯田与長治氏の千本立ちのスギ林は,明治時代の作手を代表する美林であった。
作手郷に数多くあったスギの美林は明治初年からの植林であったが,太平洋戦争中の強制伐菜で大半姿を消してしまった。僅かに残された百年生からのスギ林は,稀少価値の骨董品的存在となった。
江戸時代に大半を占めていた入会山は,明治時代になると順次入札払下げによって地元民の個人所有となり,スギ・ヒノキの植林が盛に行われた。明治末年には,小学校基本財産として学校林三〇〇ヘクタールの造成が計画され,入会林がこれに充てられた。大正時代になっても,まだ一四四一ヘクタール余の入会山があったが,大正十三年の公有林野統一事業で,四〇〇ヘクタールの村有林造成と,地上権付与地四八八ヘクタール余の設定によって,作手の山林に占める入会山の比率は極めてわずかなものとなった。
太平洋戦争中の濫伐によって,森林の立木蓄積は著しく低下したが,戦後の造林奨励で植林面積は格段の飛躍を遂げた。往年の,巨木造成主義は優良材造成へと転化した。中部高原地帯は,木曽谷に匹敵するヒノキ造林の適地であり,南部・北部の肥沃な林地帯は,全国有数のスギ造林の適地でもある。先進林業地の技術をとりいれた作手の山林が,未曽有の盛観を現出する日も遠いことではあるまい。
(峯田通悛)
********
注)これまでの記事は〈タグ「つくで百話最終篇」〉で
注)『続 つくで百話』の記事は〈タグ「続つくで百話」〉で
注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で