「七五三」。詠設楽郡村号鄙歌(3) (つくで百話 最終篇)
天気のよい穏やかな日でした。朝夕との寒暖差が大きく,紅葉の色が鮮やかになったような気がします。
今週,さらに色づきが深まりそうです。
今日11月15日は「七五三の日」です。神社や寺などに詣で,子供の成長を祝う行事です。
古来に行われていた3歳「髪置きの儀」,5歳「袴着の儀」,7歳「帯解の儀」に由来するものです。古来の儀式に倣って3歳(男・女),5歳(男),7歳(女)でお祝いする形が一般的ですが,地域によってさまざまです。
紅葉で染まる神社や寺院に,健やかな成長を願う家族に手を引かれた子供達の姿が見られたことでしょう。
子供達が健やかに成長することを願っています。
『つくで百話 最終篇』(1975・昭和50年7月 発行)の「民族と伝承」の項からです。
一昨日,昨日と紹介した「詠設楽郡村号鄙歌」を鈴木氏が“修正復原”していくなかでの説明です。
それぞれと合わせて読むと,よく分かります。
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民族と伝承
修正復原詠設楽郡村号鄙歌 校注
この歌の作者は不明であるが,文体からみて国学に造詣の深い江戸時代後期の神官であったと思われる。原作は筆写されたので誤記,脱落個所が少くないようにみうけられる。
全歌は第一章が五・七,第二章は五・七・五,第三章以下は七・五からなり,最後の一章は七・七からなっている。結局第二章は,五・七から七・五に移るために置かれたもの,全体的に観れば,古今集風の長歌だと云い得られる。
村名に傍線,振仮名を付したのは永江土岐次氏,村名の下に括孤( )で現村字名を入れたのは峯田通悛氏の手になるものである。
一章毎に行を替え,番号を付したこと,送り仮名をつけたこと,難読の語に読仮名を付したこと,脱落と思われる箇所を補足したことなどは,鈴木のしたものである。
章句の所々に解説を加え,この復原設楽郡村号鄙歌を読まれる方の参考に供したいと思う。
14
「下代」は下方の田地という意,「下平」は江戸時代末の村名(南設楽郡誌)。
22
「長峯」は川合・池場・三ツ瀬・畑・奈根五箇村の私的郷名であったもの,村号歌の作者は自分の考えたことをそのまま詠みこんだのであろう。
23
「奈根と誥しは」は「奈根と謂ひしは」とあるべきで,後人の誤記であろう。
42
「兎鹿志満(兎鹿島)守の大立」村号兎鹿島の島に「守」を添えて,島守としそれが大楯をもって防衛する意を表した。
44
「佐太の六郎八郎の」大日本地名辞書富山村の条に「佐太,郎分と云へる山里なり」とある。結局本章は,今の富山村方面(佐太地方)の伝えによると「佐太の地名を苗字とした六郎八郎などの領有した所」の意で,佐太だけが村号である。筆写文最下の肋詞「と」は誤写とみて「の」に改めた。
46
「新小田」は「あらこだ」とも「しんこだ」とも読まれる。
47
「阿平をも」は永江氏筆写のには「河平も」とある。北設楽郡史に河平という村名がなく,永江氏も村名の傍線をつけていない。村名でないとすると,ここは「阿平をも」とあったはず。その阿平は平椀のことである。永江氏は後日「何をも」と改読された。「を」の変体(乎の草体)と「平」の変体とは似ているので,くいちがいを起したもの,理屈と音調とから,結局「阿平」。
48
「市原」は北設楽郡史にある村名。永江氏の書面に「いちばら」と読んであった。
56
「田枯」は永江氏の書面に「たがらし」とあり,これに改むぺきものと思う。
69
「渡る逢野瀬(大野瀬)待ち尽す」が原本では「町尽す」となっている。しかし当時の北設楽郡には町号がなかった。従って「待ち尽す」とあったのを「町尽す」と誤写したもの。
73
押山もとの桑平──押山は今の稲武町の西北端にあり,桑平は今の設楽町の西南端にある。従って桑平が押山のもとにあるというのは無理である。地図をみると押山の近くに桑原がある。原文は或は「押山もとの桑原や」とあったのかも知れまい。
80
西路東路は設楽町八ツ橋にある。
85
「年の緒とて」が穏当と思われるが,原文の「年の儲」でも意昧は通じる。従って原文の通りとする。儲は準備の意。
86
輪締の海老に双瀬炭──締(注連)七五三の飾りに海老や炭をつけることである。前者は老人の腰曲り姿から,後者は長期保存の質からである。双瀬炭には楢炭の意が含まれている。
88
田作──ごまめの異称。正月の料理に使う。この田作りは,下の村名田内を引出すために使い,その田内の下に,また正月祝いの慰斗,昆布を添えたのである。
93
栃下──筆録者は「栃下」を「栃本」と誤った。筆写の場合に誤写の多いことはこれでも理解される。
95
三瀬──筆録者は三瀬の瀬字を,頼と写し誤っている。
97
大海も昔苧績とぞ──大海(おほみ)と苧績(をうみ−麻をつむぐこと)とは作者の時代,もう発音が似ていた。そこで作者は「大海も苧績みから始った村号で,何かの書き物に見えているのであり,理由のあることなんだ」といっているのである。それが事実であるかないかは構わず,一通りの解釈をして歌としたのである。
100
下々──南設楽郡誌,北設楽郡誌には「しもすそ」とある。言語学的に観れば次のように変化したのである。
しもすそ──しもそ──しもそう
102
打梛て──もと「打□□」とあったのをかように修正した。作者は「打和て」と書くべきを「打梛而」と戯書したのだが,その草書がきを筆写の際誤ったものと思われる。
103
其の名高田〔の〕大宮は──上ののは送り仮名をつけたもの,下の〔の〕は音調上から筆録者が書き落したと思われるものを補ったのである。
110・111
この二章には「放牧の牛は夏の草の茂りが広くあり」の意が含まれている。草部──「くさべ」と読む。今の矢部の範囲にあった昔の村名である。
118
肆八き──万葉風の戯書の一つである。
121
〔秋の垂穂の〕色栄えて──〔 〕の中は音調上から補ったもの。〔秋の夕日の〕とした方がよいような気もする。
137
日本尊御東征の際膳夫の臣(食膳を司る者,柏手の臣とも書く)が随行して作手を通過したと伝えられている。村名の善夫も,もと膳夫であったと見なした作者は,この二章に於いて「村名の漢名(漢字)膳夫」を訓読すれば「柏手の臣」であり,「これは地名源氏に遺る源姓の者だったのか,この解釈はどんなものだろう」という意を歌ったのである。
146
「道具津」は鳳来町愛郷地内と作手村守義地内とにあり,下立とは地続きである。
永江氏の写本には「下立て八」とあるが,意義上から誤写とみて「下立(折立)て」に改める。
147
永江氏は「挿頭」を地名としているが北設楽郡史,南設楽郡誌ともに挿頭という地名はない。地方の古老に聞いても知らないといっている。そこで「かざし」と読むことにした。全体の意は「誰に飾りの花をさす笠と聞こえる笠井嶋」である。
148
荒原山中一色に──この一章は「荒れた原の意の荒原も,山の中の意の山中も,一色のように一様に」で次章の「米福といふ」にかかる。
149
「米福といふ」──「米穀収穫の幸福という」意で,伝説上の米福長者を連想させている。
150
尽き〔ぬ〕稔の寿の──筆録者は打消の助動詞「ぬ」を落しているので補った。また「寿を」の「を」は「の」の誤りとみて改めた。
152
「教ふべらなる」は「教へ授くる」をおだやかに表現したものである。
(以上)
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