集団「Emication」別館

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お盆。昔話「おもづな淵の由来」 (続 つくで百話)

花0814。 晴天になり,風も弱く,暑さがこたえる日になりました。  ニュースが,猛暑,酷暑,灼熱…と伝える言葉を競っているようでした。  みなさん,暑さを愉しんでいますか。  お盂蘭盆会)になりました。  今朝,いつものように棚経がありました。  夜は,区の初盆念仏なのですが,今年は,“時節柄”遠慮されました。集まりません。  合掌。先祖に感謝。地域に感謝。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「昔話」の項からです。  村制施行八十周年を記念して発刊された『つくでの昔ばなし』に,「おもづな淵」でお話が掲載されています。 ********     昔話「おもづな淵の由来」    赤羽根  黒谷治六  作手南中学校の校庭から東の運動場へ渡る橋が,昭和四十四年の集中豪雨で流失しましたが,その後,近代的な橋が架けられまして,「おもづな橋」と命名されました。橋の真中辺のとこで川の流れが少し緩やかになって,深みのあるとこがおもづな淵です。  釜ぶた峠を水源とする赤羽根川が北赤羽根を経て,赤牛の伝説がある井戸尻の滝をつくり,その下につくられた砂防ダムにたまり,それからコンクリートの流路溝を通って南中学校の裏を過ぎ,巴川に合流するところが,このおもづな淵であります。  昔,この辺は,赤羽根村の出郷で柿平といって一集落をつくっておりました。昔の新城足助街道道は雁峯山の御前石峠から杉平へおりて上小林,手洗所,鴨ヶ谷,長者平へとのびており,人馬の往来がかなり賑かなものでした。川上は,杉平,見代,戸津呂とつづき,本宮まいり通路であり,川下は下小林,川手,大和田から鳳来寺山へ通じており,大変栄えていて戸数も相当かたまっていたときいております。  昔も,今も同じように,夏になると,子供も大人も巴川にはいって魚をとったり,水あびをしたものでした。このおもづな淵は,手頃の深さでもあるし,陽あたりは良く,対岸には格好の岩石もあったので,川水につかって冷たくなると日向ぽっこもできるので,大勢の人の遊び場となりました。  いつ頃からか,このおもづな淵に主が棲むことになりました。とある日,一人の若者が,対岸の岩石の方へ向って泳いでゆくと,突然,牛のおもづなのようなものが,ひらひらと流れてきて,若者の脚から股の間に巻きついて離れません。驚いて,解きほぐそうとするともがけばもがくほど強くまつわりついてきます。こちらが力を抜くと,ふんわりと柔らかく巻きついておるのです。ふと気がついてみると,何ともいえない,いい心持ちになっているのでした。丁度,桃源境をさまよっているような陶然とした気分にひたるのでした。こんな時が,小半時もすぎると,巻きついていたおもづなはだらりと自然にとけて,ひらひら泳ぐように,元の岩の下に吸いこまれるようにはいって行きました。  暫くたって,フトわれにかえった若者は,心身ともにヘトヘトに疲れてグッタリとなってしまいました。体じゅうの精気をすっかり吸いとられてしまったようでした。しかし,その甘ったるい,何とも形容しがたい感触は頭の中に強く焼きついてしまいました。この若者はうれしさと,恐ろしさのミックスしたような心持ちを親しくしていた友達にうちあけました。その話をきいた若者が四,五人揃って,おもづな淵へ泳ぎに行って,もう出てくるか,もうでるかと,首を長くして待ちましたが一向にでてきません。しかし,若い男が一人で泳ぎにゆくと,必ずおもづなが現われて,いつも同じように腰の辺に巻きついて,男の精気を抜きとってしまうのでした。しかし,おもづなに巻きつかれた時の甘美な陶酔感のとりこになってしまった村の若者たちは,代るがわるおもづな淵へでかけては,ひそかに,この快感を味わっておりました。おもづな淵から,帰ると二,三日は放心状態がつづきますが,時がたつと,もと通りに回復するのでした。しかし,不思議なことに,子供や女が,おもづな淵へ泳ぎに行っても,何の異変も起きませんでしたが,若い男や中年の男が一人で行くと屹度おもづなが現われるのでした。村の人たちは,これは淵の主の仕業に違いないと取沙汰するようになりました。  その頃,柿平に東右ヱ門という郷士がいました。この人は,人格識見もすぐれ,武術の奥義を極めた達人で,特に槍術の名人として,勇名が近隣の村々まで,とどろいておりました。おもづな淵の怪奇の噂を耳にした東右ヱ門は「よし,そんな主の化けものは,この俺が退治してやろう。」と決意をして,愛蔵の長柄の槍を小脇にかかえて,おもづな淵へでかけて,淵の周囲をあちこち回り歩いて眺めておりましたが,いつまでたっても主は姿をみせませんでした。もどかしくなった東右ヱ門は おもづな淵「われこそは,柿ン平の住人東右ヱ門なるぞ。おのれ憎っき化身の主奴,日頃若者たちを誑らかしたる罪悪は許し難きものなるぞ。今こそ,この東右ヱ門,天に代って成敗してくれん。いざや尋常に勝負せん。でてこい。すぐでてこい。」と水面に向って大音声で怒鳴りつけました。  それまで,カラりと晴れた好天気でしたが,一天俄かにかき曇り,大粒の雨がポツリポツリと降りだし,生嗅い風がざわざわと吹いてきたとみる間に,淵の向い側の岩石の下の水面に,ポカリとおもづなが浮びあがり,恰も蛇が鎌首をもたげたような様相をして,東右ヱ門目かけて,するすると近付いてきました。「おのれ,猪口才なり。」と東右ヱ門は,長身の槍をしごいて,大喝一声「エイッ」とばかり,おもづなめがけて,槍を繰り出しました。  槍の穂先に,確かな手応えがあった東右ヱ門は「これ化身,汝,何者なるぞ。名を名乗れ。何の意趣あって化身となり,悪業を重ぬるぞ。」と一気に問いつめました。そして眼をすえて淵の中をにらみつけると,蛇のようなおもづなは血みどろになっておりました。猶も,眼をこらして眺めますと,年の頃,十七,八才で,まだあどけなさの残る,みずみずしい,全裸の娘の姿が浮びあがりました。脇腹のあたりから滴る血汐を右手でおさえながら,苦しそうな声をはりあげて答えました。 「私は,ここから二丁(二百メートル)ばかり下流の淵ぎわに鎮座まします辨財天さまにお仕えしおりました御女子と申すものでございます。生まれつき心いやしく,男の方に心をひかれたため辨財天さまから破門になりましたので,この淵までのぽってまいり,ここに棲みついて,おもづなの姿に化け泳ぎにくる男どもに巻きついては,浅間しい快楽に酔いしれておりました。今日図らずも,あなた様に正体を見破れ,ぶざまの姿をさらしましたからには,これまでの,悪夢よりさめ,罪業消滅のため,岩となって永くこの淵にとどまり,水の守りをさせて頂きますから,どうぞ私の罪をお許し下さいますよう。」と涙ながらに謝まりました。これだけいい終わると娘の姿は,掻き消すごとくなくなりました。  それから後には,おもづな淵の主は現われなくなりましたが,淵の下手の川の真中に,長径二メートルくらいの大岩が出現いたしました。この岩を「おめこ岩」と呼んでおります。  おもづな淵から,二百メートルくらい下流に辨天岩という大きな岩石が川縁に,そそりたっております。昔は,ここに辨財天さまが祀ってありましたが,明治時代に,赤羽根の日在寺の境内におうつして,お祀りしております。この辨財天さまは,婦人病,性病などに霊験あらたかということで,今も時にお詣りする人がみうけられます。   付記  往古の杉平は,和牛の産地として,杉平牛の名は全国的に知られていたということです。牛の面網が上流から沢山流れてきて,この淵にひっかかっていたこともあったものと思われます。 ******** 【「つくでの昔ばなし」(昭和61年11月発行)掲載】   ◇『おもづな淵』  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で