集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

人生会議。作手の剣道(12)(続 つくで百話)

藤0414。 天気の良い日になりましたが,今日も強風が吹き,気温ほどの暖かさを感じられませんでした。  緊急事態宣言の発出を受け,さまざまな影響が出ています。「まだ1週間…」あり,終息に向けていけるのか明らかになるのは,まだ先です。  先は長い…。  発想の転換と,行動の大きな変化が重要です。元気にガマンです。  この機会に,人生会議を持ちました。  吉本芸人の小籔さんを起用したポスターが騒動になった人生会議ですが,終末期にどのような医療やケアを受けるか,事前に家族や医師などと話し合いを重ねる「アドバンス・ケア・プランニングACP)」は大切なことだと思います。  まず,以前に作成した「リビング・ウィルliving will)」の内容を見直しました。延命措置や苦痛の緩和,葬儀など,ほぼそのままです。  今日は,これまでに加えて「新型コロナウイルス感染症による希望表明」を確認し,感染拡大への措置や治療措置への意志を文書にしました。  最近,ご家族で人生会議を行いましたか。  この機会に,お宅でもいかがですか。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。 ********     剣道を実生活に活かす阿部金重 生いたちと少年時代 (つづき)  高等科第二学年の三学期には,卒業記念に伊勢神宮参拝の修学旅行が行なわれる慣例になっておりましたが父なき後の家計を考慮して,彼は涙ながらに修学旅行参加を断念しました。そして卒業と同時に岡崎市仲町の杉浦磯治郎石工店に徒弟として住みこみました。  石工見習となった年の暮れに,主人の許可を受けて,小学校時代に果し得なかった伊勢神宮参拝をすることになりました。郷里に帰った金重少年は,母から,その秋とり入れた新米一俵を貰って,約四キロメートル離れた米屋まで,米俵を背負って売りに行きました。米屋の主人は「お前のとこの米は質がよくて量もいいから奮発して買ってやるぞ。」といって十八円で買ってくれました。その頃は一俵十六円が相場でしたのに,二円余計に買ってくれたのです。米一俵は四斗(約六十四キログラム)が標準でしたが容量もかなり標準を超過していたものと思われます。その時の彼は今の中学三年の年令でしたが,これだけの米俵を四キロメートル背負って運んだ彼の体力も相当なものだったと思われます。  彼は,この米代金を懐にして,同級生がたどったコースを旅行して,そのついでに朝熊山に登ったり,鳥羽方面までも脚をのばして,平素の念願を果たして帰りましたが,まだ懐中に二円あまり残金がありました。  彼は小学校時代から軍人志望で,向学心に燃えておりましたので,この金を持って,主人には無断で上京してしまいました。上京した彼は,四ツ谷の封筒屋に就職して,早稲田の工手学校夜間部の入学を志望しておりましたが,郷里からの追手にみつけられ,つれもどされて,再び杉浦石工店につとめることになりました。  帝都遊学の雄図空しく岡崎に帰った彼は,石工見習の傍ら,大藤慎太郎先生が経営しておられた紫雲塾に通って漢学を勉強することになりました。大藤先生は,東京外国語学校の第一回卒業生で,英語,露語,支那語に練達の人格者でありました。毎晩夜業を終わって午後九時から先生の講義を受けました。時には十一時頃になりましても先生は快く迎えて下さいました。この紫雲塾で軍隊にはいるまでの五年間,大藤先生の指導薫陶を受けたことが彼の人格形成に大きく寄与しているように思われます。 ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で