集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

作手の剣道(11)(続 つくで百話)

花0413。 雨の一日でした。  昨夜は“台風のような”と表現したい強い風が吹きましたが,それはありませんでした。  いつもと変わらない巣ごもりが続きました。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。 ********     剣道を実生活に活かす阿部金重  作手村ヘ一歩脚を踏み入れた外来者が「おひげの先生のお宅は?」と尋ねると「剣道の阿部金重先生ですか。」と答えられるし,また「剣道の先生は?」ときくと「山羊げの金重先生は…」という返事が即座にはね返ってくることでしょう。それほどまでに剣道は彼の生命であり,ロマソスグレーの山羊ひげは彼独自のトレードマークでもあります。元陸軍少佐,剣道散士七段,銃剣道教士八段,居合道五段の阿部金重先生は鈴木房吉範士とともに東三河を代表する剣士でありますが,先生は家業の農林業に従事するかたわら地方自治や社会教育にも精力的な活動を続けておられます。この阿部金重先生の素顔を順を追って描いてみたいと思います。 生いたちと少年時代  金重さんは額田郡額田町(当時の形埜村大字切山)の佐宗佐市郎の次男として明治三十五年九月三日に誕生しました。金重さんの幼少年時代は評判のいたずら小僧でした。近所で子供の泣き声をきくと「金重さがいじめただらあ」と推量すれば,まず間違いなしと言われるほどでした。その頃の母親とくさんは,近所,隣の人たちに詫びて回るのが日課のようになってしまいました。 阿部0413。 彼の家から北方ニキロメートルくらいの所に小川が流れていて,これが東加茂郡下山村との郡境になっておりましたが,小学校は下山村の三巴尋常小学校へ通学することになっておりました。近所同志でも,村が違うと子供たちは,お互いに対抗意識が強く,よく喧嘩をしたものでした。ある時,この川をはさんで石合戦をやったところ,下山勢が優勢で切山勢は惨々な敗北を喫し,ニキロメートルほど退却して,彼の家まで逃げてきたので,母親が仲裁して,ふかし薯を双方に与えて和睦させたというエピソードも残っております。その頃からすでに彼は負け嫌いの図太い根性の持ち主であったようです。  ある日,彼の悪戯が度を越したので,両親は彼をおさえつけて,臍の下に炎をすえました。今でも彼の腹部に当時の炎あとが残っていますが,彼はこれを父母恩寵の恪印といとおしんでおります。  明治四十二年四月一日,金重少年は三巴尋常小学校へ入学しましたが,彼の腕白は相変わらずでした。一年生のときに,彼は校長先生から罰を受けております。その頃の罰は片方の手に水を入れた茶碗を持ち,他の一方の手に火をつけた線香を持って,その線香が燃え終わるまで直立不動の姿勢で立たされるのでありました。  こんな腕白小僧でも算数だけは甲でしたが,操行は六年卒業まで丙が並んでおりました。小学校卒業後,形埜尋常高等小学校の高等科に進みました。尋常科,高等科の八ヶ年の間に操行甲をもらったのはただの二回だけだったという特異な経歴の持ち主でありました。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で 【おまけ 1;おうちで読書】  図書館のツイートで初めて知りました。  閉館中のため貸し出しはありませんが,平凡社のサイトで無料公開(4/30まで,PDFファイル)していることも紹介していました。   ◇『流行性感冒』平凡社
【おまけ 2;手作りマスク】  「使い捨てマスクが入手できない」ことが続いており,マスクを手作くりする方も増えています。  靴下を使った手作りマスクは,簡単に短時間でできそうです。