集団「Emication」別館

楽しく学び,楽しく活動する,笑顔の集団「Emication」。 ふるさとの自然,歴史,風俗などお伝えします。読書や豆知識の発信もしていきます。 活動する人,行動する人,その応援と支援をする集団「Emication」。

対応…。作手の剣道(8)(続 つくで百話)

花0406。 天気の良い一日でした。  今日は,小学校の入学式でした。これからの学校生活に夢をもって“ピカピカの一年生”が登校し,お祝いを受けました。  午後になって,明日(7日)から4月19日(日)まで臨時休校が決まった(?)ようです。  新型コロナウイルスの感染拡大により,国が「緊急事態宣言」を出す状況となっていることから必要な措置だと思います。  でも…。  子供達の“学び”,“学校教育”を考えると,準備と対応にもう少し余裕をもってくれたらと残念に思います。  “19日までの教育活動”に,学校,先生,地域の工夫に期待しています。  4月の仕事について
 ○○の開始も、二転三転しています。日程の詳細は、後日になりますが、4月15日からの開始が、5月からになりました。  また、内容についても後日になりますが、これまでと変えて遠隔指導等についても検討がされています。
と連絡が届きました。何度かの変更を経て,4月の予定は無くなり,無職。  巣ごもりを続けます。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手の剣道」の項からです。 ********     剣に生涯を捧げた峯田与忠一 晩年の隠遁生活  昭和初頭の経済不況は金解禁によって拍車をかけられ,全国到るところに倒産者が続出いたしました。彼の債務も金利の累積で雪達磨のようにふえてゆきました。剣道は精練証六段になり,心技円熟の境に入るべき年輩でしたが債鬼の襲来には,あえなく潰えさるもろさを彼は包蔵しておりました。債務弁済のために,家屋敷を惜し気もなく整理してしまった彼は,昭和七年一切の公職を辞し妻子とも別離して,文字通り孤影悄然と生まれ故郷の杉平へ帰りました。  杉平の生家も,すでに人手に渡っておりましたが,屋敷の一隅にあった,ささやかな隠居所を補修して,そこに落ちつきました。それ以来,六畳一間の陋屋が彼の城となり,食堂,居間,寝室を兼ねた,この一室で,彼の新しい生活が始りました。 石碑0406。 うらぶれた彼を眺める周囲の人たちの眼は,かなり冷たいものがありましたが,彼自身はある種の諦観を得ており,悟道の風格を身につけておりました。  新居に落ちついた彼は,食糧自給のためにささやかな山田を耕作する時の外は,この城に立龍り,読書と座禅をしておりました。  また付近の竹薮から竹刀用の竹を伐ってきて入念に竹刀をつくっていた彼には焦慮も苦悩もみとめられず,聖者の面影さえ漂っておりました。  太平洋戦争が深刻になるにつれて,時代の要請による食糧増産にも精を出した彼は山峡の水田耕作にも熱意を示し,秋がくると山田の傍らに小屋を作って,ここに泊りこんで猪番をつづけた彼でもありました。  昭和十九年の歳末のある日,当時名古屋に居住していた私が小林の旧宅に疎開させていた家族を訪ねた帰途,杉平の部落で偶然にもバッタリ彼と遭いました。「俺のとこへよれ」と誘われるままに彼の寓居にはいった私は数年ぶりに彼と語り合う機会をもぢました。暫く話していたのちに,座を立った彼は,戸棚の中から,搗きたての鏡餅と三升くらいの餅米を私の前にさし出して「これを持って行け,君には恩借がある。貧者の一灯だ。」と命令的にいいました。二十余年前の金銭貸借など全然考えていなかった私でしたが,義理がたい彼の友情に頭がさがりました。私に餅米をくれたのちに,彼のための餅米が残っていたかどうか怪ぶまれる程の彼の生活でしたが情義に厚い彼の性格を如実に物語るものでした。 (つづく) ********  注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で  注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で