集団「Emication」別館

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「武田方の古宮城」(続 つくで百話)

花1231。 晦日。  2019年が終わります。どのような年を過ごされましたか。  今年を振り返り,新しい年へ備えの一日。  ブログをお読みいただき,ありがとうございました。新しい年もよろしくお願いします。  『続 つくで百話』(1972・昭和47年11月 発行)の「作手のお城物語(その二)」からです。 ********     作手のお城物語(設楽町 沢田久夫)           武田方の古宮城  元亀二年春,武田の将秋山晴近が東三河にうって出ると,前年末美濃国恵那郡上村で手痛い敗戦をした経験があるので,田峯城菅沼刑部少輔貞吉(小法師定忠)はいち早く降参しました。その家老城所道寿は長篠城菅沼正貞に働きかけ,信玄への帰属に成功しましたが,作手奥平の家臣山崎善七郎を介しての貞能への勧誘は,一向に埓があきません。そこで晴近は更に初鹿野伝右衛門を遣わし,今もし味方となれば本領安堵の上,新知を加えてもよいが,承かざれば武力を以って圧服すべしと恫喝しました。大軍を前にしては孤城無援如何ともなし難く,父貞勝の言に従い,質子三人を出して不承々々に武田氏に帰属しました。  そこで武田氏は,亀山城監視のため北方一キロの市場村宮山に,馬場美濃守信房の縄張りで古宮城を構築しました。宮山は原中に崛起する高さ二四メートルの双頭の青山で,周囲に濠代りの湿地があり中央に洞が通ってあたかもラクダの瘤の如く,その各々の頂上に本丸を置き,同心円状に三重四重に郭を重ね,土塁を積み空濠を穿って,全山を防禦一点張りの城郭としています。さすが当代有数の築城家の縄張だけあって,これ程見事な城郭は,奥三河の山城では他に類を見ません。今は西側の林が伐られ,塁郭が丸裸となって天日の下に暴露しており,城郭研究には申分がありません。  東郭本丸入口に近く,周囲六メートル余の老桧が逞しく枝を張って,亭々と聳えており,県下有数の巨木です。その南下は白鳥神社の社地となっていますが,今の神社は天和三年の創立で,戦国の頃にはここに松尾大明神が祀ってありました。 古宮城1231。 城ができ上ると甲将小幡又兵衛,大熊備前守虎盛,米倉丹後守重継等が交互に在番し,武田信豊の組下甘利左衛門尉清吉の手に属していました。貞能作手脱出の際は油断してまんまと裏をかかれ,激怒して後を追い石堂ヶ根で交戦中,かねて伏せてあった奥平方の但馬勝正が蜂起し,。古宮城後の民家に放火し鉄砲をうちかけました。追撃中の武田勢は城の方角に当り焰煙天に沖する。を見て,変事の突発を知り,にわかに兵か還しました。まんまと奥平勢の計略にかかったのです。  翌二十一日の滝山城攻は,地形の険悪もさることながら,武田軍の士気意外に上らず,田原坂の一戦に敗れて潰走,古宮城の守りも成らず自ら居城に放火し,宇津木赤羽根方面を経て玖老瀬へ撤退しました。八月二十一日午後のことで爾後廃城となりました。  この城の詰の城が塞の神城で,二者一体で始めて全きを得ます。但し本城山の名が示すように山城自体は以前からあったもので,武田方がこれに手を加え,土塁を築いたり郭を追加拡張したりしたようです。山上から見れば亀山城は一目で,奥平氏の動静を知るには絶好の監視所でした。 ******** 注)これまでの記事は〈タグ「続つくで百話」〉で 注)『つくで百話』の記事は〈タグ「つくで百話」〉で